依釈段•源信讃

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我


みなさんこんばんは。

蓮夏一照でございます。


今日は、親鸞聖人が心の底から敬った“浄土教の天才”──

**源信和尚**のお話です。

源信さんといえば『往生要集』。

日本人の地獄観から浄土観まで、ほぼ全部この人が決めちゃったと言っていい。

でも今日は、そんな“地獄のプロデューサー”源信さんの、実はめちゃくちゃ優しい一面を語ります。

◆まず源信さん、仏教全体を“ざっくり整理”する

本文にあるのは、

源信、広く一代の教を開きて、

ひとえに安養(浄土)に帰して、

一切を勧む。


これを訳すと、

「せやせや… そやけど最後は全部、阿弥陀さんとこ行きなはれ」


という“まとめ役”。

仏教の教えを全部ひろげて、最後の最後に「安養浄土が一番ええで」と背中を押す。

学級委員長的なまとめ方やけど、その結論が徹底して“やさしい”。

◆専らの道と、雑じった道

どっちがホンマに“救いの一本道”か?

源信さんは、

専雑の執心、浅深を判じて、

報土と化土をきっちり分けた


と言われています。

「本気で阿弥陀さん一本で行くか?」

「それとも、あれもこれも色々やるか?」


この違いは、ゴールが“本物の浄土(報土)”か、“化土(仮の浄土)”かその分かれ道になるで、と。

源信さん、案外バッサリ割り切るタイプ。

◆そして圧巻の一文

■「極重の悪人は、ただ仏を称すべし」

もうここですよ。

源信さんの一番しびれるセリフ。

「重たい罪いっぱいの人ほど、

 あれこれ悩まず“南無阿弥陀仏”

 言うとき。」


これは“地獄編の監督”が言ってるから重みが違う。

源信は地獄を描いたけど、最終的に浄土への誘導灯を置いたんです。

◆しかしここからがもっと深い

■「我また摂取の中にあれども…」

源信さんは続ける。

「自分も本当は阿弥陀さんの光に抱かれてるんやけど…」

「煩悩のせいで、それが見えへんのや。」


これ、あまりにも人間のリアル。

「阿弥陀さん、ライトめっちゃ当ててくれてるのに、

 ワシ、泥まみれのメガネで何も見えてへんやん…」


という感じ。

そして最後にこう言う。

「でも阿弥陀さんは倦まず、ずっと照らしてくれてる。」


これがしびれるんです。

私が見えるかどうかじゃなくて、

向こうが照らしてる事実は変わらん。

数学で言うなら──

「私の主観」は変数、

「阿弥陀の大悲」は定数。

◆まとめ


源信が教えてくれるのは、


■「見えるかどうか」は救いの条件ではない。

■「照らされている」ことが救いの条件である。


という大逆転の視点。

救われた実感があろうがなかろうが、

胸の奥が晴れようが曇ろうが、

自分に自信があろうがなかろうが、関係ない。

源信は、人間の煩悩をよく知っていた。

だからこそ、

「悪い人ほど、ただ仏を称えていけばええ」


そして、

「たとえ本人は見えへんでも、阿弥陀の光は途切れへん」


ここに浄土教のやさしさの全部がある。