依釈段•龍樹讃
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
◆ 釈尊、“未来予告”をする
ある日、楞伽山で釈尊が衆に向かって、こんな宣伝をしたんやそうです。
「南インドに“龍樹(ナーガールジュナ)”っちゅう、めっちゃキレる坊さん出るから。 彼が大乗の道をひっくり返すで。」
……釈尊、未来の予告しすぎやろ。
なんなら予告編どころかポスターまで貼ってたレベルですよ。
そして実際、龍樹菩薩はそのとおりの活躍をします。
- 思い込み(有無の見)を粉砕
- 難しい行を“難行の陸路”と喝破
- 念仏の道を“水上の高速道路”として示す
仏教界の “Google マップ” みたいな存在です。
「最適ルートはこちらです」と案内してくれる。
◆“陸路と水路”のたとえ、分かりすぎる
龍樹菩薩の名物たとえがこれ。
陸路=難行道
水路=易行道
陸路は、坂道・岩場・ぬかるみ。
「修行して悟りましょう」ってやつですね。
水路はというと――
船に乗ったら、風と潮が勝手に運んでくれる。
要するに、
“船(本願)に乗ったらエンジンは弥陀が持ってる”
ということ。
努力しすぎて沈んでいく人、
頑張りすぎて遭難する人、
迷いすぎて方向音痴になる人。
龍樹菩薩はそんな人にこう言うんです。
「あんた、船あるのに泳ごうとしてるで」
ほんまにそう。
泳ぎたい気持ちは分かるけど、沈むのもまた早い。
◆「本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る」
親鸞聖人が大事にされた龍樹の一句があります。
「本願を憶念すれば、
自然に即の時、必定に入る」
どういうことか。
「弥陀の本願にふっと心が向いたその瞬間、すでに“必ず悟りに至る身”へ転じている」という意味です。
行の重さや器量とは関係ない。
- 今日はやる気ゼロ
- 心は曇り気味
- 欲も怒りも消えへん
そんな私でも、「本願に気が向いた」その一念がすでに“水路に乗った”ということ。
◆念仏は「船に乗ってるサイン」
龍樹菩薩はこうもしっかり言うてます。
「ただ如来の名号を称して、大悲弘誓の恩を報じよ」
難しい修行の代わりに、
“阿弥陀さんの名前を呼ぶ”という方法が残されたわけです。
つまり――
- 船に乗る
- 船長の名前呼ぶ
- 「今日もありがとうございます」
これだけ。
修行というより、
ほとんど“感謝の乗船”です。
◆「恩を報ずる」念仏とは?
親鸞聖人はこの龍樹の精神を受けて、
「念仏は報恩の行」
と教えます。
「念仏したら救われる」んやなくて、
「救われた身が念仏になる」。
船に乗せてもらった乗客が、
「船長ありがとう」と言ってるようなものです。
そう考えると、念仏は
“よいしょ”でも
“頑張りの証”でもなく、
「助けられた実感の息」
なんですね。
◆締めの一句
「陸路で泣くより、
水路で浮かべ。
本願という船は、
いつでもあなた向き。」
――蓮夏一照