依経段•結嘆 

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯

■【1】「一念喜愛」って、どれくらいの“一念”なんや

仏教用語としての“一念”は、“気まぐれの一瞬”やありません。

落語風に言うなら、

●弟子

「師匠、一念ってどれくらいの時間でっか?」

●一照(わたし)

「スマホの通知を見るより早い。」

●弟子

「はやっ!」

親鸞聖人は、“信心決定のひととき”のことを一念と呼ぶわけです。

この“一念喜愛”が起これば、

煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。


つまり――

煩悩が消えるわけやないのに、救いは決まる。落語風に言えば、

●一照

「坊主になったら急に怒らんようになる、

…なんてことは人生で一度もありません。」


■【2】凡夫も聖者も、逆謗も善人も「同じ海にちゃぽん」

このご文の名場面がこちら。

凡聖・逆謗・ひとしく

回入すれば衆水、海に入りて

一味なるがごとし。


落語風にすれば――

●釈尊

「川がいろいろあっても、海入ったら全部“海の水”や。」

●弟子たち

「泥川も、清流も、同じ海の水に…?」

●釈尊

「せや。」

弥陀の本願に“回入”すれば、その人の出身(善悪・経歴・過去)は一切問われへん。

海が全部を抱きかかえる。


■【3】信心は太陽。煩悩は曇り。

この比喩がめちゃくちゃ美しい。

日光は雲霧に覆われても、

 雲の下は明るい。暗くはない。


つまり――

信心をえた瞬間、太陽は確かに昇っている。

でも、貪り・怒り・愚痴という雲が常にモクモク湧くから、“晴れへんように見えるだけ”。

落語風に言えば、

●弟子

「師匠、信心もらったはずなんですが、

 煩悩ぜんぜん減らんのですわ。」

●一照

「ええんや。雲が流れただけで太陽が沈んだと思う人はおらへんやろ。」


■【4】信を獲た人は“分陀利華(ハスの花)”

このあたりから法話に入っていきます。

信を獲れば、仏、広大勝解の者

と言えり。

この人を分陀利華と名づく。


“分陀利華(ふんだりけ)”は白蓮華。

どぶ泥の中で咲く花や。

落語風に意訳すれば、

●一照

「人間の心は泥やけど、

 そこにポンと白い蓮が咲いとる。

 …それが信心や。」

泥は無くならんけど、泥の中に“清らかなもの”が咲いてる。

だからこそ、余計に尊い。

■【5】本願念仏は「難の中の難」。でもそこにドラマがある

聖人はこう言います。

邪見・憍慢の悪衆生、

信楽受持すること、

はなはだ難し。難の中の難、

これに過ぎたるはなし。


落語風にするなら――

●一照

「阿弥陀さんの救い、“ありがたい”

 言うんは簡単なんですがね。

 “頭下げて本気で受け取る”となると、

 人間いっぺんひっくり返らな

 あかんのですわ。」

邪見(自分で何とかなると思っている)

憍慢(自分を良い人と思いすぎる)

――このふたつが、本願をそのまま受け取るのを邪魔する。

でも、だからこそ 信心決定は奇跡のような事件 になる。

■【6】まとめ

今回のご文を一照流にまとめると――

🌟【一照的・二行まとめ】

信心は太陽。煩悩は雲。

雲が多くても、太陽は沈まず、救いは揺るがない。

🌸【もうひと言】

どんな泥の心でも、信心の一念が咲けば“白蓮”になる。

本願をそのまま受け取るのは難しい。

でも受け取った人は、仏が“広大勝解の者”と讃えるほどの、人生最大の大逆転劇を果たした人や。