■ 怒りっぽい坊さん、来たる

第16章

ある日のこと。

わたしの寺に、近所で有名な“短気坊主”が相談にきました。


「先生、ぼく、信心決定したと思うんですがね、

昨日も怒ってしまいまして…。

つい本堂で隣の坊さんと口論してしまいました。

これは…回心が失敗したんですか?」


――うん、その前に、

本堂でケンカすなや(笑)

わたしは言いました。


「で、どんな口論やったの?」


すると彼、


「いやあ…掃除当番をどちらがやるかで…」


ちっちゃ!!

ちっちゃすぎる!!

信心決定したのなら、

ハタキの順番くらい水に流してほしい(笑)

でも、実はこれ、

多くの念仏者がつまづくポイントなんです。

■ 親鸞聖人の答えはもっとシンプル

歎異抄十六条、核心はここです。

回心は一回だけ。

日々の怒りや失敗で“往生の

やり直し”なんて無い。


つまり、

● 一度「本願におまかせします」とひっくり返ったら、それで回心は終わり

● そこからは“怒る・ミスる・ケンカする”も全部含めて他力の範囲

ということ。

それを親鸞聖人は

「わがはからいなるべからず」


とズバッと言い切っている。

落語風に言えばこうです。

「一度タクシー乗ったら、途中で怒っても到着するから安心しなはれ」

ドア閉まった瞬間から“タクシーのはからい”。

運転手が阿弥陀さんということですね。

■ で、怒ったらどうなるの?

どうもならんのです。

むしろ、

「悪いことをした時こそ、願力を仰ぎなさい」


と聖人は言う。

怒ってしまった自分を責めて

「やっぱり私はアカン…」

と落ち込むのは、自力のクセが残っとる証拠。

怒ったらどうなるかって?

弥陀の願が、ますます深く沁みるだけです

■ “自然(じねん)”って、勝手に悟ることやない

ここが誤解ポイント。

最近、“自然=ありのままに好き勝手でええんやろ”

と勘違いしてる人が多い。

違います。

親鸞さんの言う“自然(じねん)”は、

人間の計らいが入らんところに、

如来のはからいがはたらくこと


つまり、

● 努力して優しくなるのでもない

● 頭で“柔和忍辱モード”に切り替えるのでもない

● 「こういう人は救ってくれるけど、ワシみたいなのは無理やろ」と思うのでもない

その全部が“自力の計らい”。

怒ってしまった後に

「ああ…こんな私にこそ弥陀の願はあるんや」

と、ふっとお任せになること。

その状態こそ 自然法爾。

落語風に言えば、

「いつの間にか肩の力抜けて、気づいたらお茶の味が分かったようなもん」

がんばって“自然”になるんやないんです。

■ 信心さだまった証拠は「怒らんこと」ではなく…

親鸞聖人が言います。

「怒ったとき、よけい願力を仰ぐようになること」


これが信心の“効き目”(笑)

怒るのは煩悩具足の凡夫だから当たり前。

怒って落ち込むのは「自分の力で修行する」自力の残り香。

落語風に言うとこうです。

「腹が立ったら、“あっ、ワシ凡夫やったわ”と笑い、そのまま手を合わせる。これが阿弥陀の予定ルート」

■ では最後に、一照ひと言まとめ

● 回心は1回だけ

 →「本願におまかせします」の一転で終わり。


● 怒りや失敗は往生の妨げにならない

 → 逆に願力の深さが身にしみる瞬間。


● 自然法爾とは“おまかせになっていく心の働き”

 → がんばって自然になるのではない。


● 計らいを捨てて“ほれぼれと御恩を思え”

 → これが念仏が出る自然のすがた。


怒っても、ケンカしても、

そのたびに「やれやれ、煩悩やなぁ」と笑って、

そのまま念仏申す。


それが――

凡夫がたどる、本当の“柔和忍辱”なんです。