第12章

昔々の話です。

お寺の縁側で、ひとりのおじいさんが茶をすすりながら言いました。


「わし、一文不通

(いちもんふつう)やけどな、

 阿弥陀さんだけは

 信用しとるで。」


そこへ、隣の若い坊さんが眉をひそめて言いました。

「じいさん、それでは往生は不定ですぞ。ちゃんと経釈(きょうしゃく)を学ばんと。」


おじいさん、ぽりぽり頭をかきながら。

「経釈て……それ、うまいもんか?」


……これぞ、“第十二条の風景”ですな(笑)。

■ 「学ばねば救われぬ」という

 落とし穴

親鸞聖人の時代にも、「学問せんと往生できん」という声がありました。

いわば“知識マウント信仰”です。

聖人は、そんな風潮にズバッと釘を刺されました。

「他力真実のむねをあかせる聖教は、本願を信じ、念仏を申さば仏になる。

 そのほか、なにの学問か往生の要なるべきや。」


つまり、どんなに本を読んでも、最後は信じることひとつ。

念仏申せば、もう救われている――

それが“他力真実”。


学問が「わかるため」ならよい。

でも、「えらくなるため」なら、それは仏の怨敵(おんてき)。


……聖人、なかなか厳しい(笑)。

■ 学問が“看板”になったらあかん

世の中、学問というのはどうしても“看板”になりがちです。


「わたしは○○大学で仏教を専攻しました」

「○○講師のもとで、念仏理論を学びました」


――と言いたくなる。

けれども親鸞聖人は、それを**“聖道門の難行”**と呼ばれました。


念仏の道は“易行”です。

一文不通でも、南無阿弥陀仏と称える口があれば、それで十分。


つまり、知恵よりも“まこと”が先なのです。


■ 「学問の魔」にご用心

現代で言えば、SNS上での“宗教ディベート”みたいなもの。

「こっちの宗派のほうが正しい」

「いや、そちらは理論が浅い」


そんな言い争いをしているうちに、

いつのまにか“仏法そのもの”を見失ってしまう。


聖人はこう警鐘を鳴らされます。


「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべし。」


つまり――

言い争う場所には、だいたい煩悩がうごめいてる(笑)。

学問は光になることもあれば、魔にもなる。

だから、「法の魔障」と呼ばれるんです。

■ 落語風に言うならこんな感じ

町の法座での一幕。


先生「皆さん、念仏とは“南無阿弥陀仏”と称えることです」

学者肌の門徒「その“南無”の語源は、サンスクリットの“ナマス”ですよね?」

先生「……まぁ、そうとも言えます」

学者肌の門徒「では“阿弥陀”の意味は無量光・無量寿。となると、“仏”とは――」

先生「おいおい、そろそろお茶が冷めるで(笑)」


阿弥陀さんは、言葉の意味を解析してる間にも、

ちゃんと隣で「聞いておるぞ」と笑っておられるのです。


■ 信と学――

 どちらが上でも下でもない

もちろん、学問を否定しているわけではありません。

親鸞聖人はこうも仰います。


「この理(ことわり)にまよう人は、いかにも学問して本願のむねを知るべきなり。」


つまり、「迷ってる人ほど、ちゃんと学びなさい」と。

ただし――

学んだあとに、優しくなれるかどうかが勝負です。


本願を学ぶとは、

「自分の小ささを知る」学びであり、

「他人の愚かさを笑わない」学びなのです。


■ 今夜のひとこと

「学ぶはよし、誇るなかれ。知らずとも、すでに抱かれている。」


🌾

お念仏の教えは、知識で測れるものではありません。

“わかった”と思うほど、わからなくなる。

“知らない”と思えたとき、如来の光が届く。


だからこそ、学問も信心も、行きつくところはひとつ。

「南無阿弥陀仏」と、ただ手を合わせる心です。


学ぶ人は、やさしくなろう。

知らぬ人は、堂々と申そう。

どちらも阿弥陀の掌のうち。


南無阿弥陀仏。