第10章

あるとき、お寺の法座で、年配のご婦人が手を挙げられた。

「先生、念仏って、どういう意味なんですか?

 ちゃんと“南無阿弥陀仏”って言う理由を、説明してほしいんです。」


……うんうん、真面目な質問ですね。

けれども、この問いこそが、親鸞聖人の“究極の答え”につながるんです。

■ 念仏には「無義をもって義とす」

親鸞聖人は、こうおっしゃいました。


「念仏には無義をもって義とす。

 不可称・不可説・不可思議の

 ゆえに。」


つまり――

**「念仏には“意味”がない。だからこそ、意味がある」**というのです。

これを聞いたら、だれもが一瞬フリーズします。

「は? 意味がないのに、意味がある?」

まるで禅問答ですね。

けれども、親鸞聖人の“無義”とは、

「説明できる範囲を超えたはたらき」

という意味なんです。

■ “ありがたい”を説明すると、ありがたくなくなる

落語で言うならこんな話。

ある男が、毎日お地蔵さんに手を合わせていた。

ところが、友人に聞かれるんです。

「お前、そんなに熱心に拝んで、何お願いしてんねん?」

男はちょっと考えて、

「いや、別に……なんも。なんとなく拝んでるだけや」

すると友人が笑う。

「なんや意味ないやん」

男は苦笑して言うんです。

「意味がないからええんや。意味をつけたら“お礼参り”になる。」

――これ、まさに“無義をもって義とす”なんです。

■ 説明のつかぬ「はたらき」

たとえば、母親が子どもにご飯を作る。

「お母さん、なぜお味噌汁を作るの?」

と聞かれて、

「あなたのタンパク質補給のためです」

なんて答えたら、

……もうあんまり

美味しくないですよね(笑)。

本当の愛は、“説明を越えて”働くもの。

阿弥陀の本願も、同じなんです。

だから「不可称(かしょう)・不可説(ふかせつ)・不可思議(ふかしぎ)」――

言えない・説けない・思えない。

つまり、「わからなくていいんですよ」

と聖人は言う。

“わからない”ことこそ、信心のはじまり

なんです。

■ 「わかったつもり」がいちばん危ない

ところが人間というのは、どうしても

「わかりたい」「説明したい」生き物

です。

昔も今も、念仏の世界にも“解釈合戦”がある。

「念仏とはこういう理屈で」

「この功徳はこうで」と、

あれこれ“意味づけ”をしようとする。

けれども、歎異抄第十条には、

そういう“異義”が多くなってきたことを、唯円房が嘆いています。

「上人のおおせにあらざる異義

 どもを、近来はおおく

 おおせられおうてそうろう

 よし、つたえうけたまわる。」


つまり――

「みんな、言葉でわかろうとして、

ほんとうの心を見失ってるよ」

という嘆きです。

親鸞聖人は、ただこう言われた。

「念仏は、弥陀のよび声。

 あなたを呼ぶ声そのもの。」


説明より、響き。

理屈より、ぬくもり。

そこに“無義の義”があるんですね。

■ 落語風に言うなら、「南無阿弥陀仏」は“いのちのため息”

あるおばあちゃんが、お念仏を称えながら笑ってました。

「最近、念仏が

“口癖”になってもうてなぁ」と。

「なんか言い訳するみたいやけど、

 “あーしんど……”の代わりに

 “南無阿弥陀仏”が出るんやわ。」

その笑顔を見て、私は思いました。

――ああ、この方こそ、阿弥陀さまの“はたらき”に包まれてる。

念仏とは、努力でも修行でもなく、

**いのちの自然な吐息(といき)**なんですね。


■ 今夜のひとこと

「念仏は、わからんままで、届いている。」



🌕

「無義をもって義とす」――

それは、“わからないことを大事にする”智慧のこと。


わからなくても、呼びかけは届いている。

意味がなくても、

そこにいのちは癒されていく。

南無阿弥陀仏。

説明のいらない、いのちの言葉。


今日も、その声に抱かれて生きていきましょう。