第9章

あるとき、弟子の唯円房が、親鸞聖人にこう尋ねたそうです。


「念仏もうしてはおりますが、ちっとも踊るような喜びが出てまいりません。

 それに、早くお浄土へ行きたいとも思えないのです。

 これは、信心が足りないということでしょうか?」


……あぁ、これは、今も昔も変わらない“人間あるある”の質問ですな。

■ 喜べない、信じきれない――そんな自分を責めてしまう

たとえば、お念仏の集いで隣の人が、

「ありがたいですねぇ、嬉しゅうて涙が出ます」なんて言ってる。

でも自分は、頭を下げながら心の中でぼんやり考えてる。


「あれ? 私、そこまで嬉しくないぞ……」


こんな時、人は自分を責めるんですね。

「信心が浅いのかな」

「まだ煩悩が深いのかな」と。


けれども、親鸞聖人の答えは、

まるで“目からウロコ”のようなものでした。

■ 「喜べないあなたこそ、間違いなく往生は一定」

「天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。」


聖人はこう仰るんです。

「喜べないのは、煩悩のせい。でも、その煩悩ごと救われているんだ」と。


つまり、「喜べない自分」も

「いそぎ浄土へ行きたくない自分」も、

そのまま如来の光に包まれているんです。

■ 「娑婆(しゃば)」って、案外好きなんです

「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろう。」


このくだり、ほんとうに人間らしいですよね。

「苦しい苦しい」と言いながら、結局この世界が恋しい。

ドラマも食べ物も人間関係も、

煩わしいけれど、どこか名残惜しい。


「地獄より怖いのは、退屈だ」なんて言葉もあります。

そう、人間は、苦しみに慣れてるんです。


だからこそ――

「早く極楽に行きたい!」という気持ちが湧かないのは、ごく自然なこと。


親鸞聖人はそれを責めるどころか、

「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまう」と。

むしろ、そんな凡夫こそ、阿弥陀さまは特に慈しんでくださると仰るのです。

■ 「喜べない私」が照らされる喜び

ここで、親鸞聖人はさらに深いことをおっしゃいます。


「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。

 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、

 他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけり。」


――“煩悩具足”だからこそ、他力の救いがある。

つまり、「できる私」ではなく、「できない私」を救うのが本願。


念仏の道は、

“立派になる道”ではなく、“立派でないまま光に抱かれる道”なんです。

■ 落語の世界ならこう言うでしょう

ある噺家がこんな話をしてました。


「わしゃな、“喜べん”って人は信用できる。

 ほんまに悲しい人は、“喜べんこと”すら笑い話にできるんや。」


そう、涙も笑いも、阿弥陀さんの掌の中。

泣いてる顔も、笑ってる顔も、

みんなおなじ“煩悩具足の凡夫”です。

■ 今夜のひとこと

「喜べない心」も、“他力の光”が抱きしめている。


🌾

お念仏は、感情の明滅を超えた“いのちの響き”です。

喜んでも、喜べなくても、

そこに「南無阿弥陀仏」と声があるなら、

もう、如来の懐にいる証。


喜びを感じられない夜にも、

光は、ちゃんと届いています。


南無阿弥陀仏。