第1章

「おれなんかが救われるはずがない」

そう言う人に、私はこう言いたい。

――いや、あんたこそド真ん中やで。

仏法の“ご招待状”には、

「罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生」と書いてある。

つまり、「いちばん煩悩にまみれてるあんたが対象や」と。

■ 「信じてみようか」と思った瞬間に、もう包まれている

親鸞聖人はこう言われています。


「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、

往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんと思いたつこころの起こるとき、

すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」


ちょっと難しい言葉ですが、ざっくり言えば――


「“たすけていただけるんやな”と信じて念仏しようと思った瞬間に、

もう阿弥陀さまの光の中に抱かれてるんやで」ということ。


“ああ、なんだか信じてみようかな”と思う心そのものが、

すでに仏のはたらきなんですね。

■ 老いも若きも、善人も悪人も

阿弥陀さまの本願には、条件がありません。

「老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をえらばれず」。


年寄りでも若者でも、

優等生でも劣等生でも関係ない。

どんなに善いことをしても、

その善で救われるのではないし、

どんなに悪いことをしても、

その悪で救いが閉ざされるわけでもない。


たすかる道はただひとつ――

「信心を要とす」。


阿弥陀仏のはたらきを、

「はい、そうでございます」と受け入れること。


これ以上でも、これ以下でもありません。

■ 「悪をも恐るべからず」

「悪をも恐るべからず」と聞くと、

「じゃあ悪いことしてもええんか」と早合点する人がいますが、

そういう話ではありません。


悪を恐れなくてもいい、というのは、

「悪を犯してしまったら、もう仏さまに嫌われる」と

思わなくていい、ということです。


つまり、“見捨てられることはない”という安心。

阿弥陀さまの誓いは、

そのくらい深く、しぶといのです。

■ 「他の善も要にあらず」

「他の善も要にあらず」――これもすごい言葉ですね。


どんな立派な善行も、

「念仏にまさる善はない」。


なぜかというと、

念仏とは人間が“する”行いではなく、

仏が“させてくださる”行いだから。


私が称えるようでいて、

ほんとうは阿弥陀さまが、

「おまえを離さぬぞ」と声をかけてくださっている。


だから念仏は“行”ではなく“呼びかけ”なのです。

■ 落語的に言うなら…

「こんな悪人、仏さんが助けるはずない」

なんて言う人に限って、

実は一番早く助かるタイプ。


だって、“悪人”って、

自分でどうにもならんって知ってる人でしょ?


「おれは善人や」と思ってる人は、

まだ自力でやれると思ってる。

だから、いつまでも呼ばれない。


でも“悪人”は、

「もう自分では立てん」と膝を折る。

その瞬間、阿弥陀さんの手のひらの上。


落語で言えば、

「最後に泣くのが、ほんまに笑う人」みたいなものです。

■ 今夜のひとこと

阿弥陀仏の救いとは、

“まだ信じきれぬ”私をも、もう包んでいる。



🌕

念仏とは、努力の証ではなく、

あきらめた心にそっと届く“呼び声”なのです。


「こんな自分でも、たすけてもらえるのか」

そう思った瞬間、もう包まれている。


だから――

悪を恐れず、善に慢じず、

ただ南無阿弥陀仏。


その声の中に、すでに“往生”は始まっているのです。


南無阿弥陀仏。