なんとなく、心がカサつく日がある。

怒ってるわけでも、泣いてるわけでもない。

ただ、何をしても心に沁みてこない。

「もう、乾いとるなあ……」って、自分でもわかる日。


■ 八っつぁん、湯呑みの中の人生

八っつぁん:

「熊さん、茶を淹れたのに味がせん。」

熊さん:

「ちゃんと茶葉入れたのか?」

八っつぁん:

「あれ? 茶葉……入れ忘れた。」

熊さん:

「お前、それ“お湯”や。」

八っつぁん:

「……最近のオレの人生も、こんな感じや。」

熊さん:

「中身、どっか行っとるな。」


■ 乾くのは、悪いことじゃない

人は乾く。

雨が止むように、心にも“晴れすぎる時期”がある。


頑張っても、誰も見てくれない。

優しくしても、報われない。

「なんのためにやってるんだろう」って思う時、

心の水分が、静かに蒸発していく。


でもね、乾くことは悪じゃない。

乾くってことは、それだけ誰かのために生きてきた証なんです。

■ 熊さんのひとこと

熊さん:

「八っつぁん、乾いた茶碗はな、また水を注げばええ。」

八っつぁん:

「でも、注いでくれる人がおらん。」

熊さん:

「注いでもらうまで、待っときゃええんだ。無理に自分で沸かしても、ぬるいお湯しか出ん。」

八っつぁん:

「……なるほどな。」


■ 仏法の水は、いつでもそばにある

親鸞聖人ならこうおっしゃるでしょう。


「煩悩成就の凡夫人、

 悲しきかなや、

 仏恩の深きを知らずして日を

 過ごすことを。」


心が乾くのは、仏恩(ぶっとん)──

つまり、支えられている事実を忘れてしまうから。


阿弥陀さまの慈悲は、

私たちが気づこうと気づくまいと、

いつもそっと注がれている。


たとえ茶碗がひび割れていようが、

底に穴があいていようが、

仏の水は、必ずその隙間から沁みてくる。

■ “南無阿弥陀仏”という水

心が乾いたときにこそ、

「南無阿弥陀仏」とつぶやいてみてください。


それは“称える”というより、

仏の水を自分の中に注ぐしぐさのようなもの。


静かに声を出してみると、

喉が潤うように、少しずつ心もやわらいでくる。

何も変わらなくても、

「私は今、生かされている」と思えるだけで、

水はもう、注がれているのです。

■ 今夜のひとこと

心が乾く日は、誰かを

潤してきた証。


だから無理に笑わなくていい。

無理に元気にならなくていい。

今日という一日を、

ただ「南無阿弥陀仏」と共に過ごせばそれで十分。


乾いた大地に、静かに雨が降るように──

あなたの心にも、今、見えない水が沁みている。

☕ 今夜はどうぞ、お茶でも一服。

熱くなくてもいい。

ぬるいお湯でも、心をあたためてくれます。