あの人の一言が、頭から離れない。
「そんなこともできないの?」
「前の人はもっと良かったのに」
──たったそれだけの言葉が、
心の奥でトゲみたいにチクチクと痛む。
誰も悪気がなかったのかもしれない。
でも、痛いもんは痛い。
言葉の棘(とげ)は、目に見えないぶん厄介なんです。
■ 八っつぁん、口は災いのもと
八っつぁん:
「熊さん、昨日、長屋で大喧嘩だ。」
熊さん:
「またか。今度は誰と?」
八っつぁん:
「隣のご隠居に、“少しは掃除したらどうだ”って言われてな。つい“ご隠居も大した顔じゃないくせに”って返したんだよ。」
熊さん:
「……八っつぁん、それは刺さるな。」
八っつぁん:
「言い返したオレの胸の方が刺さってんだよ。」
■ 言葉は、刺さるもの
言葉って、不思議ですよね。
紙で切った傷なら治るけど、
言葉で切れた心は、なかなか塞がらない。
言葉の痛みが残るのは、
それだけ“真剣に受け止める人”だから。
本気で生きて、本気で人と向き合ってる人ほど、
言葉が深く刺さる。
だから、刺さった自分を「弱い」と責めなくていい。
“やさしい人ほど痛みに気づく”だけのことです。
■ 熊さんのひとこと
熊さん:
「八っつぁん、トゲが刺さったら、無理に抜こうとするな。」
八っつぁん:
「なんでだ?」
熊さん:
「焦って抜こうとすっと、余計に深く入る。」
八っつぁん:
「じゃあ、どうすりゃいい?」
熊さん:
「時間が抜いてくれる。血と一緒に、ちゃんと押し出してくれるもんさ。」
八っつぁん:
「……人の言葉も、そんなもんか。」
熊さん:
「そうさ。“我慢”じゃなく、“ゆるめる”のがコツだ。」
■ 親鸞聖人のまなざし
親鸞聖人は、
「煩悩具足の凡夫人、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」
とおっしゃいました。
この世の言葉は、すべて“うつろいのもの”。
人が口にする褒め言葉も悪口も、
どちらも永遠ではない。
仏さまのまなざしから見れば、
人の言葉に傷つく私も、言葉を発して誰かを傷つける私も、
みんな同じ“迷いの子”です。
■ 「受け流す」のではなく、
「受け止めて、流す」
「気にしないようにしよう」と思っても、
心は勝手に反応してしまう。
だから無理に“忘れよう”としないこと。
一度、ちゃんと「痛かった」と認めてあげる。
そして、
「それでも私は、この痛みと一緒に生きていく」と
静かに言葉を返してあげればいい。
その時、痛みは“刺さった棘”から“育つ芽”に変わります。
■ 今夜のひとこと
他人の言葉は、あなたの価値を決めない。
誰かの言葉で沈んだ夜にも、
あなたの心には“仏の声”が響いている。
「よう耐えたな。」
「よう泣いたな。」
「もう大丈夫やぞ。」
それが、阿弥陀さまの声。
誰の言葉に傷ついても、
あなたを包む“声なき慈悲”が、
ちゃんとここにある。
今夜は、無理に笑わなくていい。
ただ、静かに深呼吸して──
胸の奥で「南無阿弥陀仏」と称えてみてください。
痛みは消えなくても、温もりは確かに残ります。