ふと夜に、昔のことを思い出す。

あのとき、あんな言い方をしなければ。

もっと早く動けていれば。

──そんな後悔が、胸の奥をチクッと刺す。


でもね、過去の自分を責めても、

今日の自分が救われるわけじゃない。

むしろ、あのときの自分を抱きしめてあげることが、

今のあなたをやわらかくするんです。


■ 八っつぁん、後悔まみれの夜

八っつぁん:

「熊さん、オレさ、あの時、親方に一言謝っときゃよかったんだ。」

熊さん:

「ずいぶん昔の話じゃねぇか。」

八っつぁん:

「夜になると、ふっと浮かんでくるんだよ。あの顔が。」

熊さん:

「浮かんでくるってことは、まだちゃんと人を想ってる証拠さ。」

八っつぁん:

「いや、オレが情けねぇのさ。今さら悔やんだって…」

熊さん:

「そう思えるようになっただけ、立派になったじゃねぇか。」


■ 「あの時の自分」は、今の自分の

先生

後悔というのは、“悪い思い出”じゃない。

むしろ“時間をかけて届く反省”なんです。


あのときは、それが精一杯だった。

間違いも、無知も、未熟も、

すべて“その時の全力”だった。


未来の自分が“やさしく見つめられるようになる”まで、

時間が必要だっただけのこと。


だから、責めるより、育ててきたと思えばいい。


■ 熊さんのひとこと

熊さん:

「八っつぁん、昔の自分を責めるってのは、子どもを叱る親と似てるな。」

八っつぁん:

「どういうこった?」

熊さん:

「本気で叱ってるようで、実は“あの時の俺”を育ててんだよ。」

八っつぁん:

「……なんか難しいこと言うな。」

熊さん:

「難しくねぇ。『よう頑張ったな、次はもう少しうまくやろうな』って言えたら、それで十分よ。」


■ 親鸞聖人のまなざし

親鸞聖人はこうおっしゃる。


「悪人成仏のためなればこそ、如来は本願を建てたまえり。」


つまり、過去の過ちや迷いこそが、

阿弥陀さまの本願の“出番”なんです。


「もう少しうまくやれたはずだ」と思うその心に、

「それでもよう頑張った」と抱いてくださるのが仏の慈悲。


過去を悔やむ心も、

すでに如来の光の中に照らされている。


■ 「許す」ことは、「離す」こと

過去を許すとは、忘れることではない。

“手放すこと”です。


水を握ろうとすればするほど、

指の隙間からこぼれていくように、

過去も、力を抜いたときに初めて静まる。


その時、気づくんです。

後悔の中にも、ちゃんと「成長の芽」があったって。


■ 今夜のひとこと

過去は、責めるためではなく、

やさしくなるためにある。


失敗を繰り返した分だけ、人の痛みがわかる。

遠回りをした分だけ、他人の遅れにも寄り添える。


あのときの自分がいたから、

今のあなたがいる。


南無阿弥陀仏──

その六字の中には、

“あの時の私”も、“今の私”も、すべて抱かれている。


だから、今夜くらいは責めるのを休もう。

「よう頑張ったな」と、胸の中のあの人に言ってあげてください。

──その“あの人”とは、昨日までのあなた自身です。