「もっとちゃんとしなきゃ」

「失敗しないように」

「迷惑をかけちゃいけない」

──気づけば、

心の中が“義務”でいっぱい。

誰かに怒られたわけでもないのに、

自分で自分を監督して、息が詰まる。

完璧に生きようとするほど、

なぜか人生はギシギシ鳴り出すんです。

■ 八っつぁん、理想に潰れる

八っつぁん:

「熊さん、オレ、

 完璧な人間になりたいんだ!」

熊さん:

「ほう、いよいよ仏さまになる気か。」

八っつぁん:

「毎朝五時起きで掃除、

 食事は栄養バランス完璧、

 仕事ではミスなし、愚痴ゼロ!」

熊さん:

「三日で倒れるな。」

八っつぁん:

「……もう二日目で崩壊した。」

■ “完璧”は、恐怖の別名

完璧を目指す心の底には、

「失敗したら愛されないかも」

という不安があります。

だから、いつも少しだけ怖い。

でもね、仏法の目から見たら、

完璧を目指す人ほど

“すでに立派”なんです。

なぜなら、それは“愛されたい心”が

根っこにあるから。

それを悪く言う理由なんて、

どこにもありません。

■ 熊さんのひとこと

熊さん:

「八っつぁん、完璧な茶碗ってのはな、

 割れた茶碗のことだ。」

八っつぁん:

「割れた茶碗が完璧?」

熊さん:

「ヒビが入って初めて、

 お湯の熱さがわかるんだよ。」


失敗して、欠けて、こぼして、

初めて人の痛みに気づける。

そこに、ほんとの“人間味”がある。

完璧は、温度のない世界。

でも、少し欠けたあなたには、

ぬくもりがある。

■ 親鸞聖人の「悪人正機」

親鸞聖人はこう言われました。

「善人なおもて往生をとぐ、

 いわんや悪人をや。」


「立派な人でも救われるんだから、

失敗ばっかりの我々なら、なおさら救われるに決まってるじゃないか」と。

完璧じゃないからこそ、仏の慈悲が届く。

だから“欠けたまま”でいいんです。

むしろ、欠けてる方が、

光が入りやすい。

■ 「できない自分」を責める前に

できないことがあるのは当然です。

だって、“できない”を知るために、

この世に生まれてきたようなもの

ですから。

もし今日、何かをやり損ねても、

それは“人間である証明書”。

仏さまは笑って言われます。

「それでええ。それでようやっとる」

と。

■ 完璧より「誠実」

完璧を求めると、心は固くなります。

誠実を生きると、

心はやわらかくなります。

違いは、“自分を責めるかどうか”。

誠実は、

「今日もできることを

 丁寧にやってみよう」

という、やさしい覚悟です。

■ 今夜のひとこと

仏さまの世界には、

100点も0点もない。


あるのは、「ようやっとるな」という

まなざしだけ。

だから、今日つまずいたあなたも大丈夫。

欠けたままで光る、それが人間。

どうか今夜は、肩の力を抜いて、

そっとひと声。

なんまんだぶ。


その声が、

「完璧でなくても愛されている」

という事実を、

静かに思い出させてくれます。