あの日の失敗、

思い出すたびに顔が熱くなる。

「なんであんなこと言っちゃったんだ」

「もう少し上手くできたはずなのに」

──でも、そういう記憶ほど、

なかなか消えないものです。

けれどね、人間って面白い。

数年後にはその失敗で、

人を笑わせていたりするんですよ。

■ 八っつぁん、派手に転ぶ

八っつぁん:

「熊さん、聞いてくれよ。昨日な、

 道で転んじまったんだよ!」

熊さん:

「へぇ、ケガはねぇか?」

八っつぁん:

「ケガよりも恥ずかしさで

 死ぬかと思った!」

熊さん:

「で、誰か見てたのか?」

八っつぁん:

「ああ、知らねぇ女の人が通り

 かかって、“大丈夫ですか?”って…」

熊さん:

「よかったじゃねぇか。優しい人だな。」

八っつぁん:

「その人、オレの娘の担任だった…」

熊さん:

「……南無阿弥陀仏。」


■ 失敗は“恥”じゃなく“素材”

人間、転ばない日はない。

心が転ぶ日もあれば、

言葉が滑る日もある。

でもね、

それが**「生きてる証」**なんです。

お釈迦さまだって、

最初から悟ってたわけじゃない。

修行中に倒れ、苦しみ、思い悩んだ。

その失敗の積み重ねが、

後の智慧になった。

だから私たちも、失敗を「黒歴史」に

せず、“仕込み”と思えばいいんです。

落語で言えば、

「うまくスベった話」は上級者の芸です。

■ 親鸞聖人も“転んだ人”

親鸞聖人は『歎異抄』でこう仰る。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと皆もってそらごと・たわごと、まことあることなきなり。」


つまり、

「この世は失敗だらけが前提」ってこと。

完璧な人なんていない。

人間は“間違える”ようにできている。

むしろ問題は、

転んだあとに笑えるかどうか。

それが、信心の世界では

「転じて道となる」ということ。

つまり、「転んだ場所が、道になる」。

■ 失敗を笑うには、時間がいる

失敗直後は笑えません。

誰だって痛いし、落ち込みます。

でも、時間が経つと、

不思議と笑えるようになる。

それはね、「許す」ということが

起きているからなんです。

過去の自分を許し、未熟な自分を認める。

これが、仏法でいう“懺悔”。

懺悔とは「ごめんなさい」ではなく、

「そうだったんだね」と頷くこと。

■ 熊さんのひとこと

熊さん:

「八っつぁん、転んだってことは、

 そこに“足跡”がついたんだ。」

八っつぁん:

「足跡?」

熊さん:

「道を作るってのは、そういうことさ。

 みんな最初は転んで道ができるんだ。」


まっさらな道は、

まだ誰も歩いていない証拠。

転んで土まみれになってこそ、

味のある道になる。

■ 仏法でいう「転悪成善」

仏の智慧の働きは、

悪も善に転ずるというもの。

失敗も、そのまま放っておけばただの傷。

けれど、受け止めて磨けば、

それが“徳”になる。

転んだおかげで、痛みがわかる。

痛みがわかる人は、優しくなれる。

優しい人は、誰かを救う。

だから、あなたの失敗も、

仏の設計図のうちです。

■ 今夜のひとこと

転んだ場所こそ、花が咲く場所。


笑えるようになるまでの時間も、

修行のうち。

焦らず、責めず、ただ今日を生きる。

そして思い出したら、そっとつぶやく。

なんまんだぶ。

その一声が、あの日の傷を

やわらかく照らしてくれます。