親鸞聖人は、『教行信証』で

**「真実の教は『大無量寿経』」**

と定め、『正信偈』でははっきりと

こう言い切られました。


如来、世に興出したまうゆえは、

ただ弥陀本願海を説かんとなり。


お釈迦さまがこの世にお出ましになった

出世本懐は、阿弥陀仏の本願――

「必ず救う」という願いの海を、

私どもに知らせるため。だから続けて、


五濁悪時の群生海、

如来如実の言を信ずべし。


と、濁り切った時代(いま)の凡夫へ、

「如来のほんとうの言葉を、

そのままいただけ」と促されます。


人間に生まれた

“たった一つ”の要件


地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上――

六道をめぐる流転の中で、

凡夫が仏へ至る道が開かれているのは

“人間の世界だけ”。

せっかく人身を得ても、犬猫と変わらぬ

欲と怒りに押し流されれば、人間に

生まれた喜びがどこにも立ちません。


では、一番の要件とは何か。

それは――この生のうちに、

長い流転を終わらせて、真実の浄土に

往生させていただくこと。

ここが決まれば、貧に処しても、

嘲られても、

「ああ、人間に生まれてよかった」


と、胸を張って今生の幕を引けるのです。

では、なぜ浄土へ往生するのか

往生は「逃避」でも「自己満足」でも

ありません。

往(ゆ)くは自利、還るは利他。

『大無量寿経』が示すのは、

往生して無上涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)を証し、すぐさま還相(げんそう)して、迷いの世界に戻ってくる道です。

  • 往相:本願に乗じて正定聚に定まり、「いま」救いが決着する(現生不退・平生業成)。
  • 還相:仏の大悲に生き直し、縁ある衆生をともに仏道へ誘う。


つまり往生の目的は、

「私だけ楽になる」ことではなく、

如来の願心そのものを生きること。

その入口が――

如来如実の言を信ずべし。

「計らいを置き、如来の

“そのままの言葉”にうなずく」


ここです。

ただ今、信受して歩む

「臨終の善し悪し」ではなく、

いま信受して歩み出す。

今日の一声――南無阿弥陀仏――に、

如来の大悲が通っています。

そして決着がつけば、

日々の暮らしに八功徳の香りが滲む。

心が澄み、

ことばが和み、

判断は冷静に、

日々に味わいが生まれる。

これは作る“感じ”ではなく、

授かる変化です。

結び――本願海に還るよろこび

  • 真実の教は**『大無量寿経』**。
  • 出世本懐は弥陀本願海の開示。
  • 人身得難し――いまこの身で往生の決着をつける。
  • そして還相して、共に倶会一処へ。

今日も、如来の言葉に身をまかせて――

南無阿弥陀仏。