同じ仏教でも、祖師が違えば“切り口”が変わる。

これを仏教では御己証(ごこしょう)というそうです。

たとえば禅の道元禅師は「一切衆生悉有仏性(すべての衆生に仏性がある)」を、さらに一歩進めて**「一切衆生、悉く皆仏性なり」**と喝破しました。

花も犬も猫も、ただ“仏性を持つ”のではなく、そのまま法(真実)を説いているという見方です。


では、親鸞聖人の御己証とは何か。

源信僧都や法然上人の大恩を戴きつつ、なお凡夫の“いま”に届くために徹底して言い直された二つの芯――

  1. 現生正定聚・現生不退(平生業成)
  2. 絶対他力

この二本柱に照明を当ててみます。

1|現生正定聚・現生不退――

「臨終まち」ではない、

ただ今決まる救い

『大無量寿経』は「極楽に生まれた者は正定聚(必ず仏となる群れ)に住す」と説きます。

多くは「浄土に生まれてから“正定”」と読むでしょう。

ところが親鸞聖人は、ここを大胆に踏み込みました――


「かの国に生ぜんとおもわば、

すなわち正定聚」

(いま往きたいという心の

起こったその時が、もう正定)


「いつか」や「臨終の良い死に方」ではなく、凡夫のただ今に、如来と私の心がカチッと噛み合う時がある。

その時こそ現生正定聚、すなわち「この場で“もう決まった”」のだ、という御己証です。

蓮如上人はここを**「平生業成」**と受けられました。

だから――

  • 病床で七転八倒して念仏が口に出なくとも、見捨てられません。
  • 来迎待ちも、臨終の作法も、不要です。
  • 「娑婆の縁が尽きたら、黙って死ぬだけ」――目が開けば浄土。

この冷徹なまでのいま決着が、親鸞聖人の御己証の第一の光です。

2|絶対他力――自力に“対する”

他力ではなく、ただ他力

「自力の念仏はダメ、他力の念仏が善い」――つい私たちは線を引きたがります。

しかし親鸞聖人の言う**“絶対”他力**は、相対の物差しごと呑み込む他力です。

「定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ

 おしえざれども自然に 真如の門に転入する」


泣きながらの念仏、祈り紛れの念仏、功徳集めの念仏――あの一声一声に、じつは18願へ引き出す仕掛けが最初から織り込まれていた。

だから後からふり返ると、全部が他力だったと知られるのです。

「他力=人任せ」ではありません。

努力できる私の背後に、『努力できるようにさせたい』という仏願のはたらきがある。

この了解が進むと――

  • 握りしめた両拳が、合掌に変わる。
  • 文句と理屈が、南無阿弥陀仏に変わる。

そういう変化(転じる事実)が、まことの信心のしるしです。

3|三願転入の道行き――

19→20→18

  • 19願(要門):善根功徳に頼む邪定聚。
  • 20願(真門):念仏に向かうが、なお「私が称える」の自力残渣がある不定聚。
  • 18願(本願):正定聚。如来の誓いが**“いま”**に落ちる。

親鸞聖人の歩みは、ここを自分の身の上として告白されます。

「雑行を棄てて本願に帰す」――棄てられたのは善ではなく、“善に寄りかかる私”。

「選択の願海に転入せり」――どんな川も海に入れば一味の潮。

年寄も子供も、賢も愚も、差別なし。

4|八功徳の香り――信が身につく「変わり目」

信心決定は“感じ”や“恍惚”ではなく、生き方の質感に滲みます。

古来「八功徳水」に譬えられました。

  1. 澄浄・潤沢:心が広がり、粗探しより尊さを観る眼に。
  2. 香り:隠しても言葉と所作に念仏の匂いが立つ(染香人)。
  3. まろやか:和顔愛語。刺々しさが抜ける。
  4. ほがらか:出遇う人を御同朋と観る明るさ。
  5. 冷ややか:熱に浮かされず、冷静に対処。
  6. うま味:日々に味わいが出る。「今日も有難い」。
  7. さわやか:重たさが抜ける、秋晴れのような息。
  8. 無害:どれだけ飲んでも害なし=聞けば聞くほど近く深く(親縁・近縁・増上縁)。

「感じるべき何か」を無理に作るのではない。

念仏と聴聞の相続が、静かに生活の味を変えていきます。

5|家庭こそ修行道場――“プンスカ観音”を拝む

「妻を観音と拝め」と言われても、朝からプンスカ…ということ、ありますよね。

でも観音は三十三応現。千手も、子安も、馬頭もあれば、プンスカ観音だってあり得る。

腹を立てる前にひと呼吸――

  • 「いま何を諭してくださっているのか」
  • 「私のどの執着を照らしてくださっているのか」

そう受け取り直すだけで、怒りの矢印が自分に返ってくる。

そこで南無阿弥陀仏。

仏の涙が、私の涙に混じっていると気づけたら、今日一日が変わります。

6|「ただ今、ここで」――聞いて称える

聞其名号(その名号を聞け)


“いわれ”を耳で聞き、そして口で称える。

知識だけでは乾く。

称名だけでも曲がる。

聞いて称え、称えて聞く往復運動が、凡夫の呼吸です。

用のない言葉を一声の念仏に置き換えると、億劫の重罪もほぐれ、南無阿弥陀仏が永遠の仏種となる、先人はそう教えました。

7|倶会一処――

生きてよし、死んでよし

「生きなば念仏となうべし。

死なば浄土へ参るべし。」

行き先が定まった者は、臨終を再び構えない。

やがて私も還る。

「倶会一処」――皆で一処に会う。

あなたが小さく念仏を喜ぶところに、もう一人、もう一人と声が重なる。

その一人は親鸞、そして法然、七高僧、先立った懐かしい人々――

**皆で「ああ、よかったね」**と頷き合う場所が、如来の国です。

さいごに

親鸞聖人の御己証は、**「ただ今の凡夫」**に救いを落とすための言い直しでした。

  • 臨終まちではなく、現生に決着。
  • 自力と他力を比べない、絶対他力。
  • そして日常で香る、八功徳の変化。

腹が立つ日も、心が折れる夜も、声あるところに如来まします。

今日もまた――

南無阿弥陀仏。