「おかげさまで」と言えるのは、

順風の時だ。

けれど、嵐の中で同じ言葉を

口にするのは、なかなかできない。

都合が悪くなった時、人は

「神も仏もあるものか」

とつぶやいてしまう。


だが、本当の信心とは――

逆境のどん底でこそ、涙の中から

「それでも私は幸せ者だ」

と立ち上がれる心ではないだろうか。

涙には意味がある。

苦しみの原因は外にあるようでいて、

実は自分の中の「何か大切なこと」を

気づかせるための鏡だ。

悲しみの理由を問うていくうちに、

「ここまで追い込まれなければ

目が覚めなかった」

思える瞬間がある。

その時、涙は苦しみではなく、

回向に変わる。


昔、刑務所で教誨師をしていた僧侶が

語った話がある。

前科三犯、窃盗を繰り返した

23歳の女性がいた。

絶望の末、彼女は首を吊った。

その知らせに僧侶は言った。


「死にたいほど苦しかった人を、

誰が責められようか。

 私たちは死んだことがない。ただ、

あの苦痛の中で“生きねばならぬ”と

説く言葉がどれほど届くものだろうか。」


その言葉に、私は打たれた。

生も死も、善悪で裁けるものではない。

人にはそれぞれ「定命(じょうみょう)」があり、

五十年で終わる命もあれば、三年で終える命もある。


蓮如上人はこう仰った。


「もし『死にたい』と思えばすぐ

死ねる世なら、

 私などとうにこの世にいまい。

 今も生かされているのは、

定められた命が尽きぬからだ。」


死ぬ理由ではなく、

生かされている理由を問う。

その気づきが

「定命を全うする」ということだ。


「信心は難しい」と人は言う。

だが蓮如上人はこうも仰る。


「いたりてかたきは石なり。

 至りてやわらかなるは水なり。

 水、よく石をうがつ。」


硬い石のような心でも、

一滴の水――

つまり聴聞のひとしずくが

絶えず落ちれば、必ず穴があく。

「ありがたくなってから」では遅い。

「このままでよかった」と気づいた時、

すでに救いは成り立っている。


医者が病人を拒まぬように、

阿弥陀さまも、

汚れたままの私を拒まれない。

「助かる道」ではなく、

**「助けられる道」**だから。

立派になってからではなく、

今このまま、涙のままで――

「ただちに来たれ」。


阿弥陀さまは、

「どうにもならぬ者をどうにかしたい」

と願い、無量の時をかけて

南無阿弥陀仏となってくださった。

怒るな、欲を起こすな、

と説かれてもできぬ我らに、

「そのままで来い」

と呼びかけてくださる。

逃げようにも逃げられぬほど、

すでにその慈悲の中に包まれているのだ。


だから、私も決めた。

怒りが出ても、愚痴が出ても、

そのたびに思い出す。


「如来様はいくら粗末に

扱われようと、

すべてを許していてくださる。」


その思いが心をやわらげ、

人を許す力になる。

誰に見放されても、

阿弥陀さまだけは待っていてくださる。

だからこそ私は生きられる。


死は恐ろしいものではなく、

「倶会一処」―― 

お浄土で再び会うための旅立ち。

生きてよし、死んでよし。

涙の中にも光がある。

それが「たすけられる道」のあかしだ。


南無阿弥陀仏。