はじめに
「還相回向」。
この四文字を、私は**『歎異抄』の声に連れられて聞きなおしたいと思う。
結論を先に言えば――
還相は“浄土に生まれたのち”の利他のはたらきであって、現生の私の活動一般をそのまま還相と呼ぶのではない。
現生での「自信教人信」
(自ら信じ、人にも信を教える)と、
還相回向
(浄土で成佛の身となって還り来て済度する)とは、重なる部分があっても同一ではない**。
ここをはっきりさせた上で、喜べない心といそぎ願わぬ心に向き合い、なお本願が私に何をしてくださるかを確かめたい。
1. 「喜べない私」を、親鸞聖人が引き受けてくださる
「無条件に往生」と聞けば、本当は踊躍歓喜してよさそうなもの。
ところが、私にはさほど喜びが湧かない。
この“鈍さ”を、親鸞聖人は唯円房と同病相哀れむように受け止めてくださっている。
〈親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。〉
喜べないのは煩悩具足の凡夫の相。
その実相を仏が先知して「それでこそ本願の正客だ」と抱きとってくださるから、むしろいよいよ頼もしさが増すのだ、という親鸞聖人の安堵がここにある。
2. 「いそぎ浄土へ願わぬ心」も、正直に引き受ける
病を得て心細くなりながらも、なお娑婆の旧里は捨てがたい。
そしてまだ生まれたことのない浄土は恋しいと思えない――
この正直さが『歎異抄』にはっきり言い表される。
〈久遠より流転せる苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず〉
「浄土へ生まれたことがない者は浄土を願わない」という言い草で信心をせき立てるのは違う。
願えぬ心こそ煩悩の相。
その事実を覆い隠さず見つめながら、本願のはたらきに委ねていくのが真宗の歩幅だ。
3. 還相回向の正意――
「往いて還る」
ここが肝心。還相回向とは、
- 往相:本願の行信証により彼の土に往生する。
- 還相:そこで智慧と大悲を具足して、再び迷いの世界に還入し、有縁を度す。
親鸞聖人は『論註』を引いて言う――
浄土に生まれ“已りて”、奢摩他・毘婆舎那・方便力を成就し、生死の稠林に回入して一切衆生を教化する、これを還相という。
したがって、現生の凡夫の布教・奉仕そのものを還相と呼び替えるのは取り違えである。
現生で私にできるのはまず**「自信教人信」**――
自ら信をいただき、その事実を語り伝えること。
4. 「自信教人信」と日々の実装
「自信教人信」は、利他の芽である。
信をいただいた喜びは、言葉少なでも必ず外へこぼれる。
ただしそれを還相回向と名づけない。
名づけるのは彼の土に生まれてから。
現生の私は、合掌と称名の相続、聴聞の相続、拝み合いの生活に落とし込む。
それが還相の原風景を、いまここに映してくれる。
5. 臨終の一句――
「力なくしておわる時、彼の土へ参るべきなり」
親鸞聖人の喜びの芯はここにある。
正気を保てなくても、念仏を称えられなくても、娑婆の縁が尽きて力なくしておわるその時、「彼の土へ参るべきなり」。
極楽とも浄土とも言わず、ただ**「彼の土」と受けとめていく落ち着き――
おまかせの決定が、人生の最後行で静かに発光**する。
6. 真の慈悲へ――聖道の慈悲と浄土の慈悲
『歎異抄』第四章は、
聖道の慈悲(同情・扶助)と
浄土の慈悲(念仏していそぎ仏になり、思うがごとく利益する)
を峻別する。
凡夫の善意は氷原に一升の湯。
一角を溶かしても、夜が来れば凍りかえす。
だからこそ、先ず往いて還る。成仏してこそ思うがごとくに働ける。その道理が還相回向である。
7. いま口に出る六字は、還相の
遺産
私たちが今日、平然と南無阿弥陀仏と称えられる背景に、念仏を護った人々の血と汗がある。
廃仏毀釈の嵐の中で命を賭して念仏を守った先人たち――
その殉教の影を思えば、一声の六字は還相の働きの継承そのものだ。
称えるたび、歴代の還相がここに立ち上がる。
だから私は軽くしない。
軽くしないために、聴聞を続ける。
8. 今日からの三つの相続
- 聴聞の相続:同じ法座でも「初ごと初ごと」に聞き直す。
- 称名の相続:行住坐臥、時節久近を問わず、呼ばれて応える一声を。
- 拝み合いの相続:家庭から始める。彼も仏の子、我も仏の子と念じて、荒ぶる煩悩にブレーキを
おわりに
喜べない私も、いそぎ願わぬ私も、本願の正客。
その私に、往いて還るという広大な路が既に敷かれている。
現生は自信教人信に徹し、命終れば彼の土。そこからは還相。
だから今日も、静かに、確かに――
南無阿弥陀仏。