『教行信証・化身土の巻』で、

私が最も胸に刺さる言葉は二つ。

一つは

「しかるに愚禿釈の鸞、

建仁辛の酉の暦、

雑行を棄てて本願に帰す。」——

長く聖道門で手を尽くし、

それが自己計らいに過ぎなかったと知って、

親鸞聖人は自力を脱ぎ捨て、

他力本願に帰命された。

その“棄つる”の一刀が、

以後のすべてを開いた。


もう一つは、

長い引用に凝縮される三願転入の自覚である。

親鸞聖人は、善導・法然の導きにより、

19願(万行・諸善=要門)から

20願(植諸徳本=真門)へ、

さらに18願(選択本願=本懐)へと、

心の向きを回らされた。

ここに三経・三願・三機・三往生が重ねられる。

すなわち、

  • 19願=観経=邪定聚。念仏しても「私が称える」自力が芯に残る。双樹林下往生。
  • 20願=阿弥陀経=不定聚。「念仏も喜びも回向のおかげ」と転ずるが、まだ微細な自力が潜む。難思往生。
  • 18願=大経=正定聚。自力の芯が抜け、他力ひとつに定まる。難思議往生。

この歩みは、

ある日突然の“飛び級”ではない。

19→20への転換は

多くが覚え(転機)として残るが、

20→18は布団の“芯の湿り”が

いつの間にか乾くように、

相続の聴聞の中で熟す。

ここで大切なのは、

前念命終・後念即生の体験である。

無明の自分が一念に命終し、

つづく一念に必定の菩薩として生き直す。

以後は自然之所牽、

自分の都合で進むのではなく、

大願業力に牽かれて浄土へ向かう。


その道の障りとして、

曇鸞大師は三不信を戒める。

①純でない信(境遇次第で揺れる)

②一仏(弥陀)に決定せぬ信

③相続なき信。

——これを砕く鍵は、

今日も聞き、明日も聞く、憶念相続である。

蓮如上人は

「いかに不信なりとも、

聴聞を心に入れて申さば、

御慈悲にて候あいだ、

信をうべきなり」

と背を押す。


念仏は“私の善根”の総仕上げではない。

あらゆる善根功徳を

ひと味に溶かす「願海」の潮だ。

だから、老少賢愚の差別なく、

「おかげさまで」

へ心がひっくり返るところから、

日々が転じてゆく。

病も悩みも転悪成善の智慧に照らされ、

「今、ここ」の苦をお浄土への歩幅に変えていく。


結びに。

18願に定まったからといって

「もう大丈夫」と腰をかける心は、

たちまち20願へ逆戻りする。

十劫より呼び続ける名号を、

毎度はじめての声として聞き直す。

その相続のうちに、

“雑行を棄てて本願に帰す”は、

今日の私にも起こり続ける。——

聞き続け、称え続け、牽かれ続ける。

それが、私の三願転入である。