仏教の芯は縁起にある。

ものごとは単独で成り立たず、

「これ」と「これ」との関係で生まれ、

支えられ、

滅びていく。

先人はそれを

「諸法因縁生 縁欠不生」

と言い表し、

縁が欠ければ成らぬ、

整えば成ると受けとめてきた。

だからこそ、

話が流れても相手を責めず

「縁が欠けた」と収め、

「袖すり合うも他生の縁」

出会いを敬ってきた。

縁を粗末にすれば、

人はたやすく犬猫以下になってしまう――

お釈迦さまは、

その危うさを見抜き

「縁起を忘れては悟りは絵空事」

と教えられたのだ。


では、私たちはこの「縁」をどう受ければ、

日々は充ちていくのか。

鍵は縁を理屈で裁かず、

身で受け、

育てることにある。

加賀の千代女の句――


しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり


初めての柿は甘いか渋いか、

採るまでわからない。

結婚も同じ。

「良かろう」で手を取り合うが、

実際に暮らせば

「え、こんな人だったの?」が何度も出る。

そこで**「良かろう」を

「良かった」に育てる努力**が、

人の道であり、

縁起を生きる作法だと思う。

反対に、結果が思い通りでないたびに

「最初からわかっていれば…」

と縁を捨てていては、

幸福は永遠に絵に描いた餅のままだ。


人生は予定を裏切る連続である。

けれども、

良し悪しを即断する前に

「これは縁だ」と受ける。

そのうえで、言い訳ではなく手入れをする。

渋い柿も霜を経て甘みを深めるように、

関係は時間と手間で味が出る。

逃げられる時もあろう、

逃げられぬ時もあろう。

逃げられぬなら、

「これは私が蒔いた種」と腹を据える。

逃げるにしても、縁への礼節を忘れない。

どちらにも

「縁を粗末にしない」品位が問われている。


縁起の理は抽象ではない。

挨拶一つ、声かけ一つ、

相手の都合に半歩寄る一つが、

次の縁を呼び、渋みを甘みへ変える。

理屈より先に行い、

結果より先に手入れ。

私も連れ合いと暮らしの中で

何度も渋さに出会ったが、

「ご縁あって一緒になった」の一念で

今日までどうにかやって来た。

結局のところ、

人が人を人にするのは「縁」を大事にする心だ。


縁は来る。

掴むのは手。

育てるのは日々。

そしていつの日か、

「良かろう」は静かに「良かった」に変わる。