「末世の凡夫は

三世恒沙の諸仏にも捨て果てられた」。

なぜ慈悲の諸仏が見放すのか。

私はその理由をこう受けとる。

自分の本当の願いを知らず、

知ろうともせず、

気づいても満たす努力をしないからだ。

叱られて腹を立てられる子はまだ望みがある。

無反応の子に先生は手が出ない。

同じく、仏道の教師たる諸仏も打つ手がない。


ところが、

「見込みなし」になお望みをかけたお方がいる。

色も形も超えた久遠実成の阿弥陀、

すなわち本来の仏心=親心である。

「この子も私の子」と疼き、

じっとしておれずに法蔵菩薩として現れた

──私はそう味わう。


法蔵は「叩いて本音を起こす」道を立てられた。

それが四十八願。とくに

  • 第十二・光明無量/第十三・寿命無量…智慧の光で凡夫を徹底的に照らし、「私が本当に欲しかったもの」を自覚させる。
  • 第十一・必至滅度…その本音を満たす**無為無漏の世界(浄土)**を約束。
  • 第十七・第十八…凡夫に念仏(行)と信心(智)という無漏のはたらきを与え、迎え取りに適う身に調えられる。

ではその願いは本当に成就しているのか。

証拠はどこにあるのか。

遠くを探す必要はない。

「弥陀の名号となえつつ」──

南無阿弥陀仏が

私の耳と口に付き添っているという事実。

この一点こそ、

光明と寿命の誓いがいま働いている証だ。

信心の有無にかかわらず一声でも聞いたなら、

浄土はすでに用意され、こちらへ届いている。


ここで注意したいのが十劫安心の誤りだ。

「十劫の昔に弥陀が成った時、私も既に仏」

と受けるのではない。

有漏の私に無漏の智慧が届き、

根源的欲求が満たされてはじめて

「ありがとう」が立つ。

だから聴聞し、念仏申す身の行が要る。


では真宗の「おたすけ」は何を与えるのか。

病気を消すのでも貧乏を反転させるのでもない。

病気や貧乏と“仲良くしていける”

壊れない安心だ。

善悪・損得に振り回されず、

「これでよかった」と今日を生き、

無常の風が来たら

「はい、参らせていただきます」と言える腹。

人間が無意識に求めてやまなかった

根源の願いの充足である。


結ぶ。

人間の根源的欲求と弥陀の本願は根が一つ。

だから私は今日も、

南無阿弥陀仏。参らせていただきます。

この一声で、

迷いの只中に無漏の光を差し入れ、

来る日も来る日も歩ませていただく。