仏教は枝分かれしても、
外せない根本の筋道がある。
その骨格を最短で示すのが四句分別――
「有為・無為・有漏・無漏」だ。
有為とは為作・造作。
生きているかぎり、手でも口でも心でも
「何かをせずにはいられない」世界である。
いろは歌の「有為の奥山」のとおり、
越えても越えても山は続く。
家事も仕事も「片づいた」と思った瞬間に
次の用件を生む。
だからこの世は娑婆(堪忍土)、
耐え忍んで歩む場なのだ。
しかも私たちの為作には、
いつも有漏――煩悩の漏れがまとわりつく。
損得・好き嫌い・怒りと愚痴。
だから
「世の中をひっくり返せば救われる」
という発想は仏教の筋目から外れる。
まず、この世は有為にして有漏――
ここをわきまえる。
では救いはどこに開けるのか。
四句の後半、無為・無漏が示すのは、
因縁を超えた真実、涅槃すなわち浄土。
ここで道は二つに分かれる。
一つは聖道門。
この世で煩悩を断じ、
聖者として「此土入聖」を目ざす道。
もう一つは浄土門。
煩悩具足の凡夫のままで、
彼土に往生して成仏する道である。
私は後者に腹を据える。
なぜなら、欲も怒りも捨て切れぬ我が身で
「この世を浄土に」と言うなら、
まず自分が聖者にならねばならないからだ。
できない者のために、
阿弥陀如来は南無阿弥陀仏をもって近づき、
結び、迎える手立てを仕上げてくださった。
では真宗に行はあるのか。
ある。
行は必ず身で行う有為だが、
同時に無漏の仏智に貫かれていなければならない。
親鸞聖人はそれを大行と呼び、こう言い切る。
「大行とは、無碍光如来の名を称するなり。」
称名は、煩悩まみれの私の口という有為を、
そのまま無漏へとつなぐ行である。
表から見ればここは迷いの娑婆、
しかし裏から見れば、
念仏一声に浄土が裏打ちされる。
いつでも入れる座敷が隣に用意されている――
急いで入る必要はない、
今は凡夫の務めを果たしつつ歩めばよい。
結ぶ。
仏法の根本は、有為・有漏の現実を直視しつつ、
無為・無漏へと向かう方向を見失わないこと。
真宗の歩みはその最短路――南無阿弥陀仏。
損得・滑った転んだの毎日に、
一声の御名を差しはさみ、
安心して凡夫のまま日送りする。
ここに、四句分別にかなう浄土の道が立っている。