「生きる時はどんな心で?
死ぬ時はどんな心で?」――
この一点が定まらぬ者を仏教は
「迷いの衆生」と呼ぶ。
そこで阿弥陀如来は法蔵菩薩となり、
五劫の思惟・兆載永劫の修行を重ね、
「迎えに行く」道を仕上げられた。
その到達点こそ南無阿弥陀仏。
蓮如上人は「五劫思惟の御文」で、
仏がわたしのところまで近づいて来る方便として
御名が現れたと説く。
現代人は
「ほんとうにそんな修行が?」と証拠を求める。
しかし証拠は外に要らない。
有難いとも思っていないこの私の耳と口に、
御名がついて回る――
これこそ因位の御修行の結果だ。
正直に言えば、私たちは
「南無阿弥陀仏より百万円」の口である。
それでいい。
好きではないはずの御六字が、
無くてはならぬものになる。
そこに信心の転成が起こる。
お浄土や阿弥陀をどれほど語っても、
御名がなければ絵に描いた餅。
だが御名が響いている事実がある限り、
仏の救いは嘘と言えない。
やがて無常の風が来る時、
蓮如上人の言う通り、妻子も財も
「ひとつも相添うことなし」。
そのとき心のおさまりどころとして残るのが
南無阿弥陀仏である。
お釈迦さまは「聞其名號 信心歡喜」と示す。
信心は天から降らず、地から湧かない。
御名が「聞こえた」ことが信心なのだ。
蓮如上人は、
御名をたのみ申す者を光明が摂め入れ、
「摂取不捨」と受けとめられた。
言い換えれば――
「はい、南無阿弥陀仏でよろしゅうございます」
往く道は南無阿弥陀仏の一本道。
ああなれこうなれではなく、
『まかせよ』のお仰せにおまかせ。
これ以上の安心は要らない。
親鸞聖人の一句に尽きる――
「弥陀の名号となえつつ」。
生きるも南無阿弥陀仏、死ぬも南無阿弥陀仏。
蓮如上人の結びは明快だ。
「われら一切衆生の往生の体は、
南無阿弥陀仏と聞こえたり。」