蓮如上人の御化導を聴聞するとき、

まず心に据えておきたいのは、

親鸞聖人の御宗旨が

**「願成就に立脚して開かれた宗旨」**

だという一点です。

ここが曖昧になると、

「一念帰命」「平生業成」も腰が抜け、

ただの観念に傾いてしまう。

蓮如上人の御文は、

この“成就済み”の本願に私を立たせるための、

きわめて実践的な導きでした。


五劫思惟の御文—

本願は声となって来ている


五帖目第八通、

いわゆる五劫思惟の御文は核心を突きます。


五劫思惟・兆載永劫の修行は、

我ら一切衆生を

あながちにたすけるための方便に、

阿弥陀如来御身労ありて、

南無阿弥陀仏という本願を建て、…

一向一心に弥陀をたのむ衆生をたすけずんば

正覚とらじと誓い、

南無阿弥陀仏となりまします。


蓮如上人は、四十八願の学的整理よりも、

「南無阿弥陀仏という本願」

へと一直線に焦点を合わせられます。

法蔵因位の誓いが、

兆載永劫の修行を経て「声」となり、

今ここで私の耳に届く。

だから御文は、名号が“来ている”事実を

受けるか否かを問うのです。

信心は“こちらから練り上げる”ものではない。

成就済みの本願=名号に、

「ありがとう」と頷けるかどうか。


方便(ウパーヤ)—

嘘ではなく「来臨」のはたらき


御本尊の裏書にある

「方便法身尊形」を巡って、

かつて「嘘の仏だ」と

惑わされた話を耳にします。

けれども方便=嘘ではありません。

梵語upāyaが指すのは、

“coming near / approach / arrival”、すなわち

「近づき・到来するはたらき」。

無量の仏智は、遠い理想で止まらず、

衆生の側へ降りて来る。

それゆえ親鸞聖人は、


往相の回向と説くことは、弥陀の方便と聞けり

如来本願顕称名


と詠うのです。

如来の側から来る道がまずあり、

はじめて凡夫の側の歩み(還相)も成立する。

御名が私の身体にまで付き添ってくださる

という事実そのものが、

方便の極みなのです。


いま、御名をどう受けるか


最後に、五劫思惟の御文が射抜く一点を、

私の戒めとして書き留めます。

「南無阿弥陀仏は、

信心の有無や善悪の出来不出来に先立って、

もう“来ている”。」

問題は、来てくださった御名を、

私がどう受けるか。

「ありがとう」

「おまかせします」

と認め・承知・随順していくたび、

不安の中心が御名に置き換わる。

そこに安心が芽吹き、

生活のただなかで

「生きても行ける、死んでも行ける」

という足場ができる。


聖人一流の御勧化のおもむきは、

信心をもって本とせられ候。


この一句は、

“信心だけを問題にせよ”

という意味ではありません。

信心以外の何ものをも土台にしないという、

蓮如上人の覚悟表明です。

だからこそ私は、

今日も御名を聞かせていただく。

南無阿弥陀仏。

来てくださった本願に、

ただ合わさせていただきます。