野球は、どんな名選手でも
試合が始まったら監督のサインに従う。
勝手に動けばチームはバラバラになる。
人間も同じだ。
私たちは
「自分の頭で考える」ことを誇りにしてきたが、
考えすぎると心がバラバラになる。
浄土真宗はむしろこう言う――
「困ったときこそ、自分で考えず、
如来のサインを見なさい。」
👁️目のサイン ―
「可愛くて仕方がない」
阿弥陀如来の目は半眼。
完全に開いても閉じてもいない。
あれは、孫を見る祖父母のような目だ。
「可愛くて、仕方がない」。
喧嘩ばかりの凡夫を、
それでも見つめ続けるまなざし。
「どうかこの命を精一杯生きておくれ」――
そう喚びかけているのが、如来の目のサインである。
✋右手のサイン ―
「南無(帰命)」の印
右手は招喚の印。
「招」は招待、「喚」は近くまで来て呼ぶこと。
如来は遠くで呼ぶのではなく、
私のそばまで来て肩を叩き、手を引いて喚ぶ。
「目を覚ましなさい」
「狭い我の殻から出なさい」。
これが右手のサインであり、
「南無阿弥陀仏」の南無=帰命の意味である。
🤲左手のサイン ―
「阿弥陀仏」の印
左手は摂取の印。
「摂取不捨」――
どんな者でも、逃げても必ず摂め取って捨てない。
人の目や言葉に振り回され、
自分を見失う私に、如来はこう告げる。
「誰が何と言おうと、私はお前を見捨てぬ。」
このサインを見つめるたび、
「ああ、また我を張っていたな」と気づかされ、
小さく頭を下げて南無阿弥陀仏と称える。
それが“目覚め”であり、“往生”の一歩である。
🌸まとめ ―
サインを信じて生きる
如来の目は慈愛のサイン。
右手は**「帰ってこい」、
左手は「どんなときも離さない」**。
この二つのサインを胸に、
我を張る日々の中で一声ずつ念仏申す。
如来のサインは、決して変わらない。
勝っても負けても責任は
如来が引き受けてくださる。
――だから安心して、今日もプレイボール。
南無阿弥陀仏。