親鸞聖人は「南無=帰命」と開き、

「帰」は“より頼む・よりかかる”、

「命」は“勅命=帰って来い”であり、

同時に“業(はたらき)”とも味わわれた。

ここでいう業は善悪の行為が蓄える見えない力。

お釈迦さまは、神意論・運命論・偶然論を退け、

「行為(業)で人生は形づくられる」と示し、

混じり気なく・間をあけず続ける“精進”が

力になると教えられた。

業はやがて理屈を超えて体を動かす力となる。

電車で寝た子を「置いてくよ」と言いながらも

必ず抱えて降りる母の姿は“親の業”。

同様に「命=業」とは、如来が

「どうしてもお前を放っておけぬ」

と呼び続ける力であり、

その呼び声そのものが南無阿弥陀仏である。


さらに「命」は“信(便り)”でもある。

南無阿弥陀仏は如来から私への手紙。

私が勝手気ままでも、親は便りを絶やさない。

親鸞はこれを**「本願招喚の勅命」**と受け、

「帰ってこい」が声となって

ここに届いているといただいた。


阿難の問いにお釈迦さまは

「法蔵の願は十劫の昔にすでに成就」と明言。

親鸞は『大経』の要を

「その名号を聞きて」にしぼり、

ついに**「聞」の一字に極まると示した。

凡夫と仏がつながる道は、

名号を聞く**ことに尽きる。


だからこそ観想より称名へ。

散りやすい心には、口に出す念仏がふさわしい。

最初は人力車の“ひと押し”のように

力を入れてよい。

やがて名号が私に念仏させるはたらきが開く。

数や音量ではなく、

一声一声が摂取不捨のただ中にある。

自力かと案ずるなかれ——

我が口から“出てくださる”念仏に救われるのが

他力である。


小さく実践しよう。

短くてよい、声に出して「南無阿弥陀仏」。

合掌し、「呼ばれている」と受ける。

善い一手を細く長く重ね、

つまずいたらすぐ「ただいま」と帰る。

「命」はやさしい御命令。

大きないのちへ、いま帰ろう。

南無阿弥陀仏。