人の目、世間体、日めくりの吉凶、方角や数字。

見えない網に自分で自分を縛り、

言うべきを呑みこみ、やるべきを止める――

そんな日々になっていないでしょうか。


念仏は、そんな私にこう呼びかけます。

「他人が笑おうと、私が護る。

二度とないあなたの一日を、

あなたの歩幅で歩きなさい。」

この喚び声が胸に届くと、

つまらない縛りから一歩が出る。

過去の悔いにも、未来の不安にも、

足をすくわれなくなる。


親鸞聖人は流罪の理不尽を嘆きつつも、

最後には 「これ猶師教の恩致なり」 と受けとめ、

与えられた地で人びとと向き合われました。

過去を恨みの燃料にせず、

現在の務めへと変える力――

その背で響いていたのが、

南無阿弥陀仏 の声です。


『歎異抄』は言います。

「念仏者は、無碍の一道」。

見えないはずのもの――

天神地祇・冥衆――が、

妨げではなく護りへと反転する。

迷信や俗信に翻弄される心がほどけ、

「今日は凶だからやめる」ではなく

「今日は念仏で歩む」と定まる。

速さを競わず、他人と比べず、

自分のいただいた命を着実に。


冥衆護持とは、

超常の奇跡を待つ話ではありません。

「人の顔色より、如来の声を聴く」 

という生き方が、

見えない不安を見えない護りへと翻すのです。


日が良いか悪いかより、今ここで一声。

南無阿弥陀仏。

その一声が、世間の網をほどきます。

過去は働きの糧に、未来は委ねの場に、

そして現在は歩む場に変わる。

迷わすものが、護るものへ。

これが念仏者の「冥衆護持の益」。

あなたはあなたのままでいい。

如来とともに、あなたの道を。