夜が静まり、風が止むと、

寺の境内には深い静けさが満ちる。

その静けさの中で、ふと耳を澄ますと、

どこからともなく、

かすかな声が聞こえてくる気がする。


南無阿弥陀仏。


声なのか、風なのか、わからない。

けれども確かに、

そこに“いのち”が息づいている。


若いころ、私は“悟り”というものを、

どこか遠くにあるゴールのように思っていた。

けれども歳を重ねるにつれ、それが

“歩き続ける道そのもの”

だと感じるようになった。


念仏もまた、終わりがない。

一声称えて終わりではなく、

称えるたびに、新しい歩みが始まっている。


阿弥陀さまの救いは、

「いつか向こうで叶うもの」ではない。

「いま、ここで働いているはたらき」だ。


だから念仏とは、

“死後の約束”ではなく、

“生きているいまの呼吸”なのだ。


親鸞聖人は、


「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」

と仰った。

私が称えているように見えて、

ほんとうは如来が私を称えさせてくださっている。

この“他力の声”に気づくとき、

人は静けさの中に、限りないぬくもりを感じる。


夜更けに境内を歩くと、

灯籠の光がやさしく揺れている。

風が吹くたび、影が伸びたり縮んだりする。

光は変わっても、灯は消えない。


人の心も同じだ。

迷い、揺れながらも、

その奥では絶えることのない光が燃えている。

それが“念仏の灯”。


あるご門徒さんが言われた。

「住職、念仏を称えてるとね、

 誰かが“もう大丈夫だよ”って

言ってくれてる気がするんです。」


私はその言葉を聞いて、

ああ、それが阿弥陀さまの声なんだと思った。

念仏とは、

仏が人を呼び、

そして人が応える“対話の道”なのだ。


死とは、終わりではなく、

声の届く先を変えるだけのこと。

この身が果てるとき、念仏の声は止まらない。

それは光となって、彼岸へと流れていく。


だからこそ、

「念仏成仏これ真宗」と伝えられた。

念仏は成仏の道であり、

いのちの歩みそのものだからだ。


夜明け前の空は、

最も暗く、そして最も静かだ。

その静けさの奥に、

「すでに光はある」という確信がある。


念仏とは、その光を思い出す道。

“我”を超えたところで響く、いのちの声。


南無阿弥陀仏。

称える声がやみ、息が止まるとき、

その静けさの彼方で、

また新しい念仏が始まっている。


それは、終わりなき道。

いのちがいのちを照らし合う、永遠の響き。