冬の名残がようやく消え、
境内の梅がほころびはじめるころ――
「彼岸ですね」と声をかけられるたびに、
ああ、いのちもまた季節と一緒に
息を吹き返しているんだな、と思うのです。
春のお彼岸は、
“別れ”よりも“めぐり逢い”を思わせます。
凍った土の下から、
小さな芽が顔を出すように、
いのちは何度でも立ち上がる。
私たちは日々の暮らしの中で、
さまざまな別れや失敗、後悔を重ねながら、
それでもまた「今日」を生きています。
それはきっと、阿弥陀さまが
「まだ終わりじゃないよ」と
呼びかけてくださっているから。
お彼岸という言葉は、
“向こう岸(彼岸)”と“こちら岸(此岸)”
を結ぶ祈り。
でも、橋をかけるのは私たちではなく、
彼岸のほうから――
つまり阿弥陀如来のほうから。
「南無阿弥陀仏」という御六字は、
“渡りなさい”ではなく、
“迎えに行くぞ”という声なのです。
だから、お彼岸は“行く日”ではなく
“迎えられる日”。
そして春は、その迎えの光が
いちばんやわらかく感じられる季節です。
ご門徒さんの中に、
ご主人を亡くされたばかりの
奥さまがいらっしゃいます。
ある年の春彼岸、
お墓の前でぽつりとこうおっしゃいました。
「あの人の分まで生きるつもりだったけど、
結局いま、
あの人に生かされてる気がするんです。」
その言葉に、私は深くうなずきました。
往った人が“過去”になるのではなく、
今を生きる私の中で“息をしている”――
それが仏教の言う「再生」なのだと。
春彼岸の太陽は、
沈むときと同じように、昇るときもまた美しい。
“生と死”ではなく、“沈みと昇り”。
一度沈んだものが、また照らし出される。
それこそが仏のはたらきです。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
阿弥陀の光は、
私たちの弱さや迷いを否定せず、
そのまま照らしてくださる。
だからこそ、
どんな苦しみの中にも“再生の芽”があるのです。
春の風が吹くと、
散った花びらがまた空を舞い、
まるで「いのちは終わらないよ」と
語りかけてくるようです。
彼岸とは、
あの世を思って静かに生き直す日。
そして再生とは、
この世をもう一度、
阿弥陀の光の中で生きること。
南無阿弥陀仏。
今日もまた、光の方から呼ばれながら――
私たちは、いのちを新しく始めているのです。