秋の夕日は、

なぜあんなにも胸にしみるのでしょうね。

西の空に沈む光を見つめると、

誰かに「もう、よく頑張ったね」と

言われているような気がします。


お彼岸を迎えるたびに思うのです。

あの夕日の向こうに、

たしかに“阿弥陀の世界”がある――と。


昔、聖徳太子が建てられた四天王寺には、

西の門がありました。

そこに掲げられた言葉。


釈迦如来 転法輪処 当極楽東門中心


「この門は、極楽浄土の東の入口にあたる」

という意味です。

人びとはその門から西の空を眺め、

沈みゆく太陽を阿弥陀仏の後光に見立てて

手を合わせたといいます。


その祈りが、やがて“お彼岸”という

日本独自の行事に育っていきました。

彼岸――それは、悟りの世界。

此岸――それは、私たちの迷いの世界。


昼と夜が等しくなる春と秋。

光と闇、彼岸と此岸が、

ほんの一瞬、やわらかく溶け合うそのとき。

人は、ふと「向こう岸」を思い出すのです。


念仏の教えでは、

彼岸へ渡る道は、

自分で架ける橋ではありません。

彼岸のほうから、

阿弥陀さまが橋をかけてくださっている。


「南無阿弥陀仏」という六つの文字は、

此岸からの祈りではなく、彼岸からの呼び声。


「おまえの立っているその場所こそ、

わたしの救いが届いているところだよ。」


そう囁くように、夕日の光が私たちを包みます。


秋彼岸には、

いつもお参りに来てくれる老夫婦がいます。

お墓の前に小さな花をそっと供えて、

ご主人がつぶやかれました。


「あの人は、あっちの岸に行ったけど、

ちゃんとこっちを

見ててくれる気がするんです。」


私はうなずきながら言いました。


「ええ、阿弥陀さまの光の中で、

その“見る”というはたらき

が、もう働いています。」


亡くなった人は“いなくなる”のではなく、

形を変えて、私たちのいのちを照らしている。

それが“無為にして無漏”――

仏の世界なのです。


人間の世は「有為にして有漏」。

努力して、迷って、また立ち上がって。

けれど、どんなに頑張っても、

どこか満たされない。

それでも、そんな生き方のひとつひとつが、

実はもう、阿弥陀の光に照らされている。


そのことに気づく日こそが“お彼岸”。


「今日彼岸 菩提の種を まく日かな」


この句のように、

彼岸は“何かを得る日”ではなく、

“何かを思い出す日”なのだと思います。


夕日が沈むころ、

境内を歩いていると、鐘の音が静かに響きます。


南無阿弥陀仏――。

誰の声でもなく、風のように聞こえるその響き。

それはたぶん、向こう岸からの“おかえり”の声。


私たちは、

彼岸を目指して生きているのではない。

もうすでに、その光の中を生かされている。


南無阿弥陀仏。

彼岸とは、“あちら”と“こちら”がつながる日。

そして、あの夕日のように――

阿弥陀の光は、沈むことなく、

いつも私たちを包んでくれているのです。