お通夜のあと、

ご遺族の方がぽつりとおっしゃいました。

「住職……もっと優しくしてやればよかった」


その声には涙と一緒に、

深い後悔が滲んでいました。


この「もっと〇〇しておけば」こそ、

人間らしい言葉だと思います。

でもその優しさが出てくるのは、

愛していた証拠でもあるんですよね。


私たちは、生きている限り

「間に合わなかったこと」を抱えて生きます。


あの時、ひとこと言えばよかった。

あの人に、あんなこと言わなければよかった。


けれど、時間はもう巻き戻せない。

だからこそ、人は苦しい。

後悔というのは、

「心がまだ生きている」証拠なんです。


仏教では、この「後悔」を

“我(が)”の反動として見ます。


「自分がこうあるべきだった」

「自分が正しくできなかった」


それは一見、反省のようでいて、

実はまだ“自分中心”の思いの中にある。


でも、如来のまなざしは違います。

阿弥陀さまは、そんな「自分を責めるあなた」

をも、まるごと抱きしめてくださっている。


ある日、妻に言われました。

「あなたって、説法ではいいこと言うけど、

 家ではけっこう後悔してるよね」


図星です。

法話で「過去は変えられません」と言いながら、

夜になると「あの時、もっとこうしておけば」

と思い出している。


でも、そのときふと気づくんです。


――後悔の中にいる“私”を、

もう一人の“何か”が見つめている。


それはきっと、如来のはたらき。

自分ではもう癒せない心を、

静かに包んでくださっている。


「罪悪深重の凡夫、煩悩具足のわれら、

他力の信心をえて往生す。」


自分の中に、後悔や罪悪があるからこそ、

如来の慈悲が届く。“ゆるされる”とは、

“そのまま受けとめられている”ということ。


私は思うのです。

「ゆるす」というのは、

力じゃなくて出遇いなんです。


人は自分をゆるすことができない。

でも、ゆるしてくれる存在に

出遇うことはできる。


それが、阿弥陀さま。


あなたの後悔をなかったことにはしない。

そのままの心で、あなたを照らし、

抱きしめてくださる。


あるご門徒さんが、

亡き夫への思いを語ってくださいました。

「私ね、いまだに謝りたいことがいっぱい

あるの。でももう本人には届かないでしょ?」


私は答えました。

「いいえ、届いてます。

 阿弥陀さまの光の中で、全部“聞かれて”ます」


仏さまの光は、過去にも未来にも届く。

後悔の奥に潜む“愛しさ”を見抜いて、

それを“ゆるし”に変えてくださるんです。


🪞南無阿弥陀仏。


私たちは、ゆるすために生きているんじゃない。

ゆるされて生きているんです。


過去を悔いる心の中にも、

すでに如来の光が届いている。


だからもう、

あなたの後悔ごと、手を合わせてみてください。

その手の中に、ゆるしがそっと宿っています。