「住職、最近ほんとに時間が足りません」
――先日のご門徒さんの第一声でした。
仕事、家事、介護、スマホの通知。
たしかに、今の世の中は
“忙しさ”がデフォルトになっています。
でも、仏教的に見ると、
忙しいって「心を亡くす」と書くんですよね。
なるほど、
うまくできてる言葉だなあと、いつも思います。
私も例外ではありません。
法要の準備をしながら、
頭の中では原稿の構成を考え、
その横で猫が鳴き、
娘が「パパ、充電器どこ?」と聞いてくる。
あっちを見てもこっちを見ても、
“今”にいない自分がいる。
それでいて、「落ち着きたいなあ」とつぶやく。
そりゃ落ち着かないはずです。
自分が“今ここ”にいないんですから。
仏教でいう「空(くう)」とは、
何もないことではなく、
“関係でできていること”
を言います。
時間も同じです。
“私の時間”
のように思っていても、
家族や仕事、社会との関係で生まれている。
だから、どんなに急いでも、
「自分だけの時間」
を完全に切り取ることはできないんです。
ある日、妻に言われました。
「あなた、今日ずっと
“早く早く”って言ってたよ」
振り返ると、朝から晩までその言葉を口にしてた。
「早く出かけなきゃ」
「早く仕上げなきゃ」
「早く寝なきゃ」
……でも、
どこへ行くつもりだったんでしょうね。
結局のところ、
“今”を急いで通り過ぎてるだけでした。
忙しさって、不思議なもので、
“やってる感”が心の安心をくれるんです。
でもその裏で、
「生きてる感」が抜け落ちていく。
だからこそ、仏教は「空」を説きます。
「空」とは、執着を手放し、
今あるご縁に気づくこと。
「何かをしなきゃ」ではなく、
「今ここで生かされている」ことに気づく。
たったそれだけで、
“忙しい一日”が、
“満たされた一日”に変わるんです。
以前、法事のあとで
おばあちゃんがこう言いました。
「住職、私、毎日何もしとらんけど、
それでもいいんかね?」
私は笑って答えました。
「“何もしとらん”ということを
ちゃんと味わえるのは、すごいことですよ」
おばあちゃん、しばらく考えて、
「……なるほどねぇ。じっとしてても
“ご縁の風”は吹いとるんやね」と。
はい、それが“空”の世界。
風は目に見えなくても、確かに頬をなでている。
🍂南無阿弥陀仏。
“空”とは、何もないことではない。
すべてが支え合ってあること。
だから、「私が忙しい」のではなく、
**“忙しさの中に私が生かされている”**んです。
今日も、メールの通知が鳴り、
電話が入り、時間が足りなくても――
この息があるだけで、もう“間に合っている”。