「住職、あの時ああしていればよかった……

って、いまだに思うんです。」


あるお通夜のあと、

ご門徒さんがそう呟きました。


誰の胸にもある言葉です。

私だって、説法が終わったあとで

「もう少し短くすればよかった」と、

毎回ちょっと後悔しています😂


後悔とは、

「時間をさかのぼりたい」という願い。

でも、仏教は言います。

過去は変えられない。

けれど、過去との関係は変えられる。


たとえば、

亡き人にもう一度会いたいと思うとき。

その願いが叶うことはない。

でも、その人への思いが

私の中で温かくなる瞬間、

その人は“いま”も私の中で生きている。


つまり、「会う」という形は変わっても、

「つながり」は消えていない。


それが、阿弥陀さまの“ゆるし”の世界なんです。


親鸞聖人はこう言われました。


「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」


この「悪人」とは、“後悔する者”のことです。

自分の愚かさを知り、

「ああ、あのとき…」と心を痛める人。

まさに、私たちのことです。


でもその痛みの中に、もう光は届いている。

なぜなら、ゆるしとは、

如来の側からすでに届いているものだから。


ある日、妻が言いました。

「あなた、ほんとに“ごめんなさい”が下手ね」


図星です。

私は謝るより先に、つい理屈を並べてしまう。

でも、ある時ふと思ったんです。

「ゆるされたい」って気持ちの根っこには、

「ほんとうは、もう一度関わりたい」

という願いがあるんですよね。


ゆるしとは、関係を切ることではなく、

関係をもう一度結び直すこと。


阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」という呼び声は、

まさにその“結び直し”のはたらきです。


「あなたがどんな後悔を抱えていても、

 もう切れていない。

 私は、あなたとともにいる。」


その声が、南無阿弥陀仏。


娘が試験で失敗して落ち込んでいたとき、

私は言いました。

「人は“やり直す”より、

“受け取る”方が難しいんだよ」


過去をやり直すことはできなくても、

その出来事を「いただく」ことはできる。

失敗も、過ちも、

誰かを傷つけた後悔さえも――

すべてを「受け取る」ことで、

光に変わっていく。


🕊南無阿弥陀仏。


ゆるしとは、

「なかったことにする」ことではない。

「そのままを抱きしめる」こと。


後悔があるからこそ、いまを大切にできる。

過去を責める心の底に、

すでに仏の慈悲が流れているんです。