先日、娘にこう言われました。

「パパ、またエゴサしてるでしょ?」


ギクッ。

心のスクリーンショットを

撮られた気分でした😅


SNSに投稿した法話の記事。

「いいね」が増えると嬉しい。

減るとちょっと寂しい。

コメントがつかないと

「やっぱり今日はスベったか」と落ち込む。


でも、そんな自分を笑いながら思うんです。

“この「いいね」って、

現代の数珠玉みたいなものだな”と。


指で弾くたび、心が揺れて、

いつの間にか「他人の数」に拝んでいる。


仏教では、人間の苦しみの根を

「我執(がしゅう)」と言います。

“自分”という小さな殻にしがみつく心。


「もっと認められたい」

「誰かに褒められたい」

「自分の価値を確かめたい」


この心が悪いんじゃない。

生きてる証拠なんです。


ただ、その心に“捕まってしまう”と苦しくなる。

まるで、スマホを握りしめて

手放せなくなった時のように。


昔、親鸞聖人はこう言われました。


「人の褒めを好み、人のそしりをきらう、

これ凡夫の常なり」


もう、見事な診断書です。

「いいね」に喜び、「バッド」に凹む私。

まさに凡夫の常。


でも聖人は、

そこに「悪い」とは仰っていません。

ただ、「それが凡夫のすがたですよ」と

見つめてくださっている。


人からの評価は、風のようなものです。

吹けば涼しく、止めば暑い。

でも、風そのものに執着すれば、

いつか息が詰まる。


だから大切なのは、

風が吹いていることに気づく心なんです。


「誰かが見てくれた」

「誰かが聞いてくれた」

それだけで、もう十分ありがたい。


娘がこう言いました。

「パパ、“いいね”って言葉、

ほんと上手にできてるよね」


「なにが?」と聞くと、

「“いいね”って、言う人も気持ちいいし、

言われる人も救われるじゃん」


……おぬし、なかなかの菩薩。


親鸞聖人は

「如来のまことが我に届く」と言われました。

つまり、私たちが仏を信じるんじゃなく、

仏が私たちを信じてくださっている。


人からの評価がなくても、

如来の「いいね」は、すでに届いているんです。


💬南無阿弥陀仏。


“いいね”が一つもつかない日も、

阿弥陀さまの光は、

あなたに無限連打してくれている。


承認欲求を笑いに変えられたとき、

そこに、ちいさな“自在”が生まれるんです。