「住職、なんで“南無阿弥陀仏”って何回も

言うんですか?一回じゃダメなんですか?」


お参りに来た高校生に、そう聞かれました。

うーん、鋭い。

たしかに、仏教界の“永遠のリピート曲”ですもんね😂


でもね、あの六文字は「おまじない」でも

「唱える修行」でもないんです。

むしろ、**“呼び声”**なんです。


「南無阿弥陀仏」

と口に出しているように見えて、

本当は、阿弥陀さまが私の口を借りて、

ご自身の名を称えさせてくださっている。


つまり、私が呼んでいるんじゃなく、

呼ばれている。


「念仏を称えるは、我が力にあらず。

如来の大悲が、我に称えさせたまうなり。」


念仏を称える私の声の中に、

すでに如来の“まこと”が息づいている。

だから、「如来はどこにおられるんですか?」

という問いは、

“咲いている桜を見て春がどこにあるか分からん”というようなものなんです。


私たちは、人生の片隅でいつも

片づかない思いを抱えて生きています。

後悔もあるし、怒りもあるし、

やりきれないこともある。


でも、親鸞聖人は言われました。

「まことをもって来い」とは言われない。

「まことのないお前のもとへ、

わたしのまことをもって行こう」


これが、**“至心に回向したまえり”**

という言葉の味わいです。


「至心(ししん)」とは、

自分がつくるまことではありません。

阿弥陀さまのまことが、

こちらへ届いている状態のこと。


私が信じるのではなく、

信じられている――

そこに気づくことが、念仏の道なんです。


思えば、私も若いころは、

「自分で悟らねば」「修行しなければ」って、

力んでいました。


でも、力んでる時ほど、心は硬い。

ようやく気づいたんです。

阿弥陀さまは、そんな“力んだ私”の方へ、

そっと寄ってきてくださっていたんだって。


人生は、どうしたって片付かない。

「これでよし」と思える日は、そう多くない。


それでも――

「南無阿弥陀仏」と称える声があるかぎり、

そこに如来のはたらきがある。


その声が続くかぎり、

迷いのままの私が、

もうすでに浄土の道を歩んでいるんです。


「南無阿弥陀仏」とは、

私が呼ぶ声ではなく、

如来が「帰ってこい」と呼ぶ声。


称えるたびに、呼びかけと応えが重なり合う。

その響きの中に、救いがある。


今日も一日、いろいろ失敗しました。

でも最後にひと声、

「南無阿弥陀仏」。


それで、十分。

如来のまことが、ちゃんと息をしている。


合掌。