「住職、空気読めないって言われたこと、
あります?」
お盆明けの法要で、
ご門徒さんにそう聞かれました。
ありますとも。
何なら、読もうとして余計に外すタイプです😂
たとえば法事のあと。
「今日は暑かったですねぇ」と言われて、
「ほんとですね〜、この世は“無常”ですからね」
って返したら、場が一瞬で“無”になりました。
空気、全滅。
でもね、「空気を読む」って言葉、
よく考えると仏教的なんです。
「空気」って目に見えないけど、
それがなければ、
私たちは一瞬も生きていけない。
つまり、「見えないけど確かにある」。
これ、まさに仏教でいう
「縁起(えんぎ)」の世界なんです。
たとえば、お寺の法要もそう。
お坊さんが一人で鐘を叩いても法要じゃない。
ご門徒さんが一人でお念仏を称えても、
それだけでは場にならない。
鐘の音、花の香り、人の声、座布団のぬくもり。
それらがひとつになって、
初めて「法要」という“いのちの場”が生まれる。
これが「縁起」。
一つの命も出来事も、単独で立っているようで、
じつはすべて、
まわりの“空気(ご縁)”に支えられている。
思えば、うちの寺もそうです。
妻がいなければ、法話の原稿もまとまらない。
娘がいなければ、スマホの設定も分からない。
お供えのまんじゅうを食べ忘れても、
義母がそっと片づけてくれる。
私は“住職”というより、
“家族縁起の中心点”。
いろんな人に生かされているだけなんです。
仏教には「空(くう)」という言葉があります。
「空」とは“空っぽ”ではなく、
**“関係で成り立っている”**という意味。
空気も「空」です。
それ自体では形をもたないけれど、
風として、息として、音として、
あらゆる命のあいだを流れている。
だから、「空気を読む」って、本当は
「縁を感じ取る」ってことかもしれません。
相手の言葉の裏にある気持ち、
沈黙のあたたかさ、
そこに流れる“見えないはたらき”を感じる。
それが仏教でいう「空」の感性なんです。
ご門徒さんが笑いながら、
「住職、空気読めないですねぇ」と言うとき、
その“笑える関係”そのものが、
もう救いの形です。
怒りや孤独の空気を溶かすように、
一緒に笑える――それも阿弥陀さまのはたらき。
この世界は、空気のようなご縁でできている。
見えないけれど、確かにある。
掴めないけれど、感じられる。
だからこそ、人のやさしさに触れたとき、
私たちは“いのちが空気に包まれている”
ことを思い出す。
今日も私は、空気を読まずに法話をして、
妻に「そこじゃない」とツッコまれています。
でもまあ、それもまた“縁起”。
「空気の読めない住職がいる」おかげで、
お寺の空気がちょっとだけ柔らかくなるなら、
それも阿弥陀さまのはたらきでしょう。
🍃南無阿弥陀仏。
空気のようなご縁の中で、
今日もいのちは息をしている。
🪷
「空」とは、何もないことではなく、
すべてがつながっているということ。
見えない空気のように、
あなたを包む“ご縁”が、今日もここにあります。