今回の記事は、私が唯一、フランソワーズ・アルディについて書いている次の記事を「リブログ」して書いています(「元の記事」もぜひご覧ください)。

 

 

こちらは、発売後すぐの頃の映像と思われます(画面にも、「1973年11月13日」との文字が見えます)。

 

 

こちらは、1990年、「共作者」であるミシェル・ベルジェ(1947-92)と共演したテレビ番組の映像です。

 

 

 

 

こちらも、ミシェル・ベルジェと共演したテレビ番組の映像ですが(1979年)、歌の前の「語り」の部分で言葉が飛んでしまったため、「師」でもあったミレイユ(1906-96)が、「助け舟を出した」形となりました。

 

 

「テレビが苦手」と言っていたフランソワーズ・アルディですが、こうした「ぐだぐだ感(笑)」も、今となっては、本当に「微笑ましい」ものですよね。

 

 

「大変貴重な映像」とも、言うことが出来そうです。

 

 

 

そしてこちらは、2007年、フランス・ギャル(1947-2018)が、「夫」でもあった、ミシェル・ベルジェの「没後15周年」に際して企画した番組において、「当時の思い出」を語り合っているものです。

 

 

 

こちらが「オリジナル録音」です(1973年7月録音/同年11月発売)。

 

翌1974年に発表された「英語版」もあります。

 

 

 

上掲の録音は、いずれも、こちらの「デラックス版(2枚組)」に収録されています。

 

 

 

 

 

こちらは、ミシェル・ベルジェの「公式MV」です。

 

 

1986年4月のゼニット・パリ公演でも、「一部」だけではありますが、歌っています。

 

 

 

 

 

フランス・ギャルは、ミシェルの死後、初めて、この曲をレコーディングしました。

 

 

1995年、アメリカにて録音されたこのアルバムは、翌1996年に発売されましたが、ミュージシャンを「一新」したこともあり、その雰囲気は、それまでとは、ずいぶんと「変わった」感じともなりました。

 

 

「スタジオ録音」は、これが「最後」となりましたが、この時知り合うことになったブルック・ドーイットは、その後、フランス・ギャルの「最後の伴侶」となり、2015年11月には、「共作」のミュージカル、「RESISTE "レジスト"」を上演し、「大成功」を収めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「初期」にミシェル・ベルジェがプロデュースを手がけ、「元恋人」でもあったヴェロニク・サンソン(1949-)も、1999年、そのカバーアルバム、「d'un papillon a une etoile "蝶から星へ"」で、この曲を採り上げていました(ただし、特定の店舗にて販売された、「初回限定盤」にのみ収録です)。

 

 

 

 

 

 

 

またこの曲は、映画「8人の女たち(Huit Femmes)」(2002年 フランソワ・オゾン監督)でも使われ、劇中では、イザベル・ユペール(1953-)が歌っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フレンチポップ」がテーマの記事一覧

 

 

「ミシェル・ベルジェ&フランス・ギャル」がテーマの記事一覧(ミュージカル「RESISTE」についての記事も「こちら」から)

 

 

 

 

さて...

 

 

 

前回記事の終わりで「速報」した通り、6月11日、「がん」のため、「長い闘病生活」を送っていたフランソワーズ・アルディが、ついに力尽き、この世を去って行きました...。

 

 

 

 

以下は、その「逝去」を伝えるニュースです。

 

 

フランスのニュース雑誌「le Nouvel Obs」も、その「代表作」を5曲採り上げ、フランソワーズ・アルディを「追悼」しています。

 

 

 

 

 

フランソワーズ・アルディは、「フレンチポップ」の歌手の中では、日本でもよく知られているアーティストの1人です。

 

 

夫は、俳優で歌手の、ジャック・デュトロン(1943-)で、彼との間に生まれた息子、トマ・デュトロン(1973-)もまた、「歌手」として、「俳優」として活動しています。

 

 

 

フランソワーズ・アルディ自身は、あまり恵まれた環境で育ったとは言えないのですが、「バカロレア(大学入学資格試験)」の合格祝い」で贈られたギターを「独学」で習得し、自ら曲を書くようにもなったということです。

 

 

その後、歌手ミレイユ(1906-96)の主宰する、「プティ・コンセルヴァトワール・ド・ラ・シャンソン(シャンソンの小音楽院)」に通い、歌を勉強していたところ、その「素質」を認められ、1961年11月には、「正式」に、レコード会社と「契約」を結ぶことになったのでした...。

 

 

 

 

 

1973年、「新しい命(=トマ・デュトロン)」をおなかに宿したフランソワーズ・アルディは、「新しいレコード会社」を探してもいました。

 

 

そんな折、3月にアルバムを発売したばかりで(フランソワーズ・アルディは、そのアルバムを「気に入っていた」と言っています)、前年に、ヴェロニク・サンソン(1949-)の「デビュー・アルバム」もプロデュースしていたミシェル・ベルジェのもとを、彼女は訪れました。

 

 

(現在では、「coeur brise(=broken heart)」という「通称」で呼ばれているそのアルバムは、明らかに、当時、「突然の別れ」となったヴェロニク・サンソンとのことが歌われており、今回の「この曲」にも当然、その「影響」が感じられます)

 

 

 

まだタイトルのなかったこの曲に、「歌の前に "語り" を入れたい」といった提案がミシェルから出され、アルディの側からも、曲のタイトルを、「message personnel "個人的メッセージ(告白)"」としたいというアイディアが出され、この「名曲」が生まれました...。

 

 

 

 

この曲について語った、フランソワーズ・アルディの「インタビュー映像」です。

 

 

 

 

 

それでは以下に、今回の曲、「message personnel "個人的メッセージ(告白)"」の歌詞を載せておくことにいたしましょう。

 

 

 

「歌い出し」に先立つ「語り」は、先述のように、ミシェルの「提案」により、フランソワーズ・アルディ自身が書いたものですが、これが実は、その数か月前(6月)に生まれた、息子トマ・デュトロンに向けたものだとも言われています。

 

 

 

また、「vouvoyer」(「あなた」と、あらたまって言う場合の話し方)と「tutoyer」(「君」と、気軽に言う場合の話し方)の間で「微妙な揺れ」もあり、これは、「コミュニケーションの難しさ」について書かれたものだとする意見もあります。

 

 

 

 

 

最後に、セルジュ・ゲンスブール(1928-91)が「フランス語詞」を書き(もともとは「アメリカの曲」です)、フランソワーズ・アルディの歌で「大ヒット」となった、「comment te dire adieu "さよならを教えて"」(1968)も載せておきましょう。

 

 

(その他の「有名曲」については、「元の記事」をぜひご覧ください。

この記事は、その「リブログ」です)

 

 

 

 

 

今回の「訃報」はまず、ユトリロさんのこの「第一報」により、知ることになりました。

 

 

 

また、フランソワーズ・アルディの「大ファン」と目される、「Kanaria_san」の記事も、その「強い(熱い)想い」にあふれていると感じられます...。

 

 

 

 

そして、フランソワーズ・アルディの「逝去」は、先述のように、今回の曲に「(間接的ながらも、)関わり」があるとも言える、息子、トマ・デュトロンにより「公表」されました。

 

 

 

 

あらためまして、フランソワーズ・アルディのご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

 

 

合掌...。

 

 

 

 

フランソワーズ・アルディ(1944.1.17-2024.6.11)

 

 

 

 

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message personnel  告白(個人的メッセージ/私小説)

 

 

au bout du telephone il y a votre voix

et il y a des mots que je ne dirai pas

tous ces mots qui font peur quand ils ne font pas rire

qui sont dans trop de films, de chansons et de livres

je voudrais vous les dire et je voudrais les vivre

je ne le ferai pas: je veux, je ne peux pas

 

電話の向こうにあなたの声

そして、私には言えない言葉

笑わせないのなら、それらはみな、とても怖い言葉

映画や歌、本の中にありがちで

私はあなたに、それらを言いたいし、そうやって生きてもみたい

私はそうしない そうしたい でも出来ない

 

je suis seule a crever, et je sais ou vous etes

j'arrive, attendez-moi, nous allons nous connaitre

preparez votre temps, pour vous j'ai tout le mien

je voudrais arriver, je reste, je me deteste

je n'arriverai pas: je veux, je ne peux pas

 

私はやり切れないくらい孤独で でも、あなたがどこにいるか知っている

今すぐ行くわ、待ってて お互いをよく知りましょう

準備をして あなたのために、私も、すべての時間を捧げましょう

私は行きたい でも動けない そんな私が嫌

たどり着けない そうしたい でも出来ない

 

je devrais vous parler, je devrais arriver ou je devrais dormir

j'ai peur que tu sois sourd, j'ai peur que tu sois lache

j'ai peur d'etre indiscrete

je ne peux pas vous dire que je t'aime peut-etre

 

あなたに言うべきだった 私は行くべきだった あるいは、眠るべきだった

あなたは聴こえないのかも あなたは臆病なのかも

私は失礼ではないかと恐れる

私はたぶん、あなたに言うことは出来ない 「ジュ・テーム(愛してる)」と

 

 

mais si tu crois un jour que tu m'aimes

ne crois pas que tes souvenirs me genent

et cours, cours jusqu'a perdre haleine

viens me retrouver

si tu crois un jour que tu m'aimes

et si ce jour-la tu as de la peine

a trouver ou tous ces chemins te menent

viens me retrouver

 

でも、もしあなたがいつか、私を愛してると気づいたなら

あなたの思い出が、私を困らせているとは思わないで

そして走って 息が切れるほどに走って

私をまた見つけに来て

もしあなたがいつか、私を愛してると気づいたなら

そしてもしそのとき

あなたを導く道が分からなくなったとしても

私をまた見つけに来て

 

si le degout de la vie vient en toi

si la paresse de la vie s'installe en toi

pense a moi, pense a moi

 

もし、生きることが嫌になったら

もし、生きていくことが億劫になったなら

私のことを想って 私のことを想って

 

mais si tu crois un jour que tu m'aimes

ne le considere pas comme un probleme

et cours, oui cours jusqu'a perdre haleine

viens me retrouver

si tu crois un jour que tu m'aimes

n'attends pas un jour, pas une semaine

car tu ne sais pas ou la vie t'emmene

viens me retrouver

 

でも、もしあなたがいつか、私を愛してると気づいたなら

それが問題のように思わないで

そして走って そう、息が切れるほどに走って

私をまた見つけに来て

もしあなたがいつか、私を愛してると気づいたなら

待たないで 1日でも、1週間でも

だって、人生がどこへあなたを導くか分からないでしょ

私をまた見つけに来て

 

si le degout de la vie vient en toi

si la paresse de la vie s'installe en toi

pense a moi, pense a moi

 

mais si tu...

 

もし、生きることが嫌になったら

もし、生きていくことが億劫になったなら

私のことを想って 私のことを想って

 

でも、もしあなたが...

 

(daniel-b=フランス専門)