今回の記事は、こちらの記事とも「関連性」があることから、その「リブログ」としています(「元の記事」もぜひご覧ください)。

 

「日本テレビ」による、大変「貴重」な映像集です。

 

 

「国内旅行(鉄道・航空)」がテーマの記事一覧

 

 

 

 

さて...

 

 

ついに...

 

 

ついに、「この日」がやって来てしまいました。

 

 

 

 

特急街道

JR北陸本線「最後の日」!!

 

 

 

 

明日、「3月16日」は、「福井県民」としては、まさに、「(長年の)悲願」とも言える、

 

 

 

 

「北陸新幹線」

 

 

 

が、「敦賀」まで「延伸開業」される日でもあるのですが、それと引き換えに、「在来線(JR北陸本線)」「第3セクター化」され、これまで、「国鉄」、「JR」と受け継がれてきた「全国ネットワーク」からはついに切り離されることになり(もちろん、「線路」はつながったままではありますが...)、「しらさぎ」「サンダーバード」といった「特急」は走らず、「地域交通」に徹する役割を担うことになります。

 

 

 

「敦賀」から先、北陸本線「長浜・米原/名古屋」方面、湖西線経由「京都・大阪」方面は、依然「JR」のままであり、「北陸新幹線」から「接続」する特急として、「しらさぎ」「サンダーバード」ともに走り続けはしますが、「JR北陸本線」は、その、わずか「45.9km」の路線ということになり、もう、「北陸トンネル」を抜けて、「福井方面」にまで、やって来ることはありません。

 

 

「検査作業」のため、「回送」されることは「あるかも知れない」ということですが、「定期列車」としては、「福井駅」ではもう、「しらさぎ」「サンダーバード」の、「681/683系特急電車」を目にすることは「もうない」ということです...。

 

 

 

思えば、「元国鉄職員」でもあった「祖父」の影響により、「幼い頃」から、「鉄道(国鉄線)」に慣れ親しんで来たとも言えるこの私...。

 

 

その「付き合い」は、もう「50年(半世紀)近く」にもなります。

 

 

 

「普通列車」がまだ、「電気機関車(「ED70/EF70/EF81」)」で牽引されていた、「旧型客車」の時代...。

 

 

 

「くずりゅう」「立山」「ゆのくに」といった「急行列車(475/455系電車)」が走り、その「間合い運用」のような形で走っていた、「料金不要」の「快速列車」が主流だった1980年のころ「特急列車」(当時は、「485/489系」、または、「583系」の時代でした)はまさに、「高嶺の花」でもありました。

 

 

「食堂車」すら連結していた当時に比べれば、現在の編成は、至極「シンプル」であるとも言えますが、「スピードアップ」の反面、「列車旅を楽しむ」という点では、「後退」した感も否めません。

 

 

 

「長距離」を結んでいた「国鉄時代」の名残りで、「JR化後」も、かなり長く、「大阪」から、特急「白鳥」が、「昼行最長距離」で、「青森」までを結んでいたりもしましたが、それもやはり、「時代の流れ」とともに「系統分割」され、消えて行きました。

 

 

 

また、同じ距離を「夜」のうちに駆け抜ける、寝台特急「日本海」には、本当に、何度「お世話」になったか分かりません。

 

 

 

夜の「11時(23時)」に福井を出発して床に就けば、ちょうど翌朝6時には「山形県」に入り、「秋田」、「青森」にも、「ちょうど良い時間」に着くことが出来たのです...。

 

 

(「同区間」を走り、「札幌」まで長駆する「トワイライトエクスプレス」には、結局、一度も乗車することが叶いませんでしたが、「地元」ではもちろんのこと、「金沢駅」や、「南千歳駅」など、不思議と、「(沿線各地で、)見かけることは多かった」列車だと言えます。

 

これはやはり、「縁があった」と言うべきなのでしょう...)

 

 

 

 

こちらは、2000年12月の映像と音声ということですが、青森発大阪行きの上り特急「白鳥」の、「青森発車直後」の「車内放送」だということです。

(昔、「福井駅」から下り「白鳥」に乗った際は、とりあえず、「富山」あたりまでの到着時刻が案内され、それ以降の駅の案内は「また後ほど」というケ―スが「ほとんど」でした)

 

 

 

こちらは、上り寝台特急「日本海4号」(「函館」始発)の、「青森発車直後」の車内放送です。

 

 

(私自身は、この「函館発着」の「日本海1号/4号」には、ついに乗ることがありませんでした。

 

私にとっては、「青森発着」の「3号/2号」こそが、寝台特急「日本海」だったのです...)

 

 

 

 

そしてそれを、「補完」するような形で走っていた夜行急行「きたぐに」は、「新潟」へのアクセスだけではなく、「山形県」方面、また、「長岡経由」で「東京方面」、さらには、「大阪」でのライヴの「帰り」、あるいは、「東京」を「21時台」(東海道新幹線)に出発しても、夜が明ける前に「北陸」まで帰ることが出来たという、まさに、「オールマイティ」な列車でもありました。

 

 

 

こちらは、2012年3月14日撮影ということですが(「定期列車」としての廃止直前)、夜行急行「きたぐに」(下り)からの、「進行方向左側」の車窓です(「武生-福井間」)。

(当時のダイヤで、「武生駅」は、2時04分発、「福井駅」は、2時17分着定刻です)

 

 

 

金沢と上野を、「長野」経由で結んでいた特急「白山」も、その「晩年」は「1往復のみ」と、少し寂しい状況ではありましたが、北陸新幹線が「長野」まで開業した後も、「上越線経由」でしばらく生き残っていた夜行急行「能登」には、引き続き、お世話にもなりました。

 

 

 

こちらも大変「懐かしい」、夜行急行「能登」「おはよう放送」です(上り「大宮」「上野」到着直前)。

(「夜行列車」では通常、「深夜」の時間帯には「減光」され、「車内放送」も「休止」となります)

 

 

 

金沢から、新潟までの特急「北越」や、現在の新幹線列車名ともなっている、特急「はくたか」(「681/683系」)にも「思い出」はありますが、やはり「福井県民」としては、「米原しらさぎ」の「前身」でもある、特急「加越」、「サンダーバード」の前身、特急「雷鳥」を、忘れるわけにはいきません。

 

 

 

しかしその中でも、私が「飛び抜けて(ダントツで)」利用している列車と言えば、やはり、「しらさぎ」ということになるでしょう(旧「加越」も含めて)。

 

 

 

「敦賀-金沢・富山間」においても、「サンダーバード」よりは、「圧倒的」に、私は「しらさぎ」を利用していたのです。

 

 

「名古屋」まで、初めて「ひとり」で乗った列車も「しらさぎ」でしたし(1983年8月)、そのぶん、「思い入れ」自体も「強い」と言えるのですが、やはり何となく、「安心感」が感じられるのです。私にとっては...。

 

 

 

「雷鳥」(「サンダーバード」)にしても「しらさぎ」にしても、「長年」の間には、いくつもの「変遷」がありました。

 

 

 

その「歴史」を言い表すには、とても、「ひと言」では足りないでしょう...。

 

 

 

(全列車が「新型車(681/683系)」に置き換わったのは、実は、「しらさぎ/加越」の方が先でした。

 

「旧型車(485/489系)」置き換えのため、一気に、大量の編成が投入されたからです)

 

 

 

 

2003年4月、485系旧特急「加越」(現「米原しらさぎ」)、下り「米原」発車直後の様子です。

 

 

(「485/489系」といった、「国鉄時代の車両」では、「直流/交流」の「電源切り替え」の際、車内は「一時消灯」となっていました。これは、「夜間」でも「同様」でしたので、本当に、車内は、「真っ暗」になっていたのです。

 

この当時は、「長浜駅」を過ぎたところに、「切り替え区間(デッドセクション)」が設けられていましたが、1991年9月13日までは、ひとつ米原寄りの駅である、「田村駅」での切り替えとなっていました。

 

現在は、2006年9月より、「敦賀駅」を出て、「北陸トンネル」に入る直前の位置に変更されています)

 

 

 

 

「福井」と言えば、やはり忘れてはいけないのが、2015年3月、「北陸新幹線金沢延伸開業」の際に登場した、特急「ダイナスター」でしょう。

 

 

 

「新幹線未開業」であった「福井」と、「金沢」とを結ぶ「リレー特急」で、私にとっては「便利」ではありましたが、「福井発は朝」、「金沢発は夜」と、あくまで、「しらさぎ」や「サンダーバード」の走らない時間帯に限られた列車設定のため、イマイチ、「影が薄かった感」は否めません。

 

 

「しらさぎ」や、「サンダーバード」自体が「走れない」時には、「代走」として、この「ダイナスター」の名称を掲げて走ることもありましたが(「敦賀-金沢間」)、結局、「9年」で、「お役御免」となってしまいました。

 

 

(「ああっ、ダイナスター(台無しだ―)!!」などと言ってる場合じゃない...!!)

 

 

 

 

ここ数日、私は、「JR在来線」としての「北陸本線」、その「最後の日々」の様子を見に、「福井駅」へと足を運び、実際に、「入場券」にて、「ホ―ム」へも出てみました。

 

 

 

 

「JR福井駅」での「発車メロディ」である、葉加瀬太郎さん(1968-)作曲・演奏の「悠久の一乗谷」。

 

「北陸新幹線」となっても、このメロディは引き継がれますが、やや「短縮」となっています。

(「余談」ですが、14日木曜日、「1番ホ―ム」で、13時01分発の「しらさぎ53号」を待っていたら、その列車に「これから乗る」という「同僚」にバッタリ出会って、「ビックリ」しました...)

 

 

 

 

間もなく生まれ変わろうとする駅構内では、「みどりの窓口」「みどりの券売機」に並ぶ列、現行ダイヤの「電光掲示板」や、「発着時刻表」などにカメラを向ける人たちで、「ごった返している」状況です。

 

 

 

「日中」の時間帯では、やはり、「大阪・名古屋方面」の列車から下車する方が多く、座席もかなり「埋まっている」状況でした。

 

 

 

そんな中でもやはり、「湖西線強風のため米原迂回」(「サンダーバード」)という日もありましたが(6日)、本日は、私自身も、「越前花堂(えちぜんはなんどう)駅」「大土呂(おおどろ)駅」(昔の最寄り駅)まで、「JR線として最後の乗車」をして来ました。

 

 

 

「学校」も早く終わるためか、「2両編成」の列車は「パンク寸前」という「大混雑ぶり」でしたが、どうしても、「これだけは、やっておきたかった」のです。

 

 

 

「越前花堂駅」「大土呂駅」「福井駅」とも、「明日」からの「ハピラインふくい」の駅名標の上に、「真新しい」、「JR西日本」の駅名標が貼り付けられているようでした。

 

 

 

「明日」になれば、「はがすだけでOK」だからなのでしょうが、以前来たときは、長年の「汚れ」や「色褪せ感」が激しかっただけに、「最後の花道」として、これは「ナイスアイディア」だと思いました。

 

 

(「越前花堂駅」でも、「越美北線」側は「JR」のままのためか、駅名標は「そのまま」でした...)

 

 

 

 

「JR最終日」の本日、「3月15日」でしたが、それでもやはり、列車に「遅れ」は出ていましたね。

 

 

 

私への「影響」は微々たるものではありましたが、せっかくの「快晴」だったというのに...(でも、「風」はまだまだ冷たい...)。

 

 

 

「これが最後」ということで、列車にカメラを向ける人も多かった本日...。

 

 

 

私自身も、駅のホ―ムで、「通過」していく「しらさぎ」「サンダーバード」を見送りながら、「両特急」とともに歩んだ、「この半世紀」を思い返していました...。

 

 

 

 

とりあえず本日は、「速報」の形で、「ここまで」にしておきましょう。

 

 

また、あらためて書くこともあるかと思います...。

 

 

 

 

そして「16日」ですが、いよいよ「新幹線開業」ということで、さっそく「乗って来ます」!!

 

 

 

そのため、ほぼまる1日、ブログ関係のアクションは「出来ない」と思いますので、あらかじめご了承をお願いいたします。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

それではまた...。

 

 

(daniel-b=フランス専門)