イスラエル出身の偉大なヴァイオリニスト、イツァーク・パールマン(1945-)。

 

4歳の頃「ポリオ(小児麻痺)」にかかったことで、下半身が「不自由」となりましたが、ヴァイオリニストになる夢を諦めることなく努力した結果、「20世紀を代表する世界的演奏家」にまで登りつめました。

 

指揮のダニエル・バレンボイム(1942-)は、「ピアニスト」として「有名」ですが、「指揮者」としても、数多い「名演奏」で知られています。

 

パールマンと共演したこの映像は、1992年、ベルリン・フィルを指揮しての演奏です。

 

 

なお、パールマンは、第1、第3楽章の「カデンツァ」を、フリッツ・クライスラー(1875-1962)作曲のバージョンにて、弾いています(詳細は後述)。

 

 

 

 

こちらも、パールマンの「代表的名演奏」ですが、1980年9月に録音されたこのレコードは、カルロ・マリア・ジュリーニ(1914-2005)との共演です。

 

 

先に紹介している、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調op.77」でも、バレンボイムとの共演の映像が残されており、あわせて「DVD」として発売されています。

 

 

(参考)現在、「動画サイト」では、「第3楽章」の一部のみ、映像が「公開」されています(この他、下に挙げている「ライヴ盤CD」の音源として、「楽章」ごとにアップもされています)。

 

 

こちらは、その「ライヴ盤CD」です。

 

 

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ウクライナ出身の偉大なヴァイオリンのマエストロ、ダヴィッド・オイストラフ(1908-74)が、アンドレ・クリュイタンス(1905-67) と残した、まさに、「歴史的名演奏」です(1958年フランス録音)。

 

「第1、第3楽章カデンツァ」は、やはり、クライスラーのものを弾いています。

 

 

 

 

続いて、ポーランド・ワルシャワの出身で、後にメキシコに帰化したヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリング(1918-88)が、1973年4月に、ベルナルト・ハイティンク(1929-2021)の指揮する、オランダの「名門」、アムステルダム(現ロイヤル)・コンセルトへボウ管弦楽団と録音した、やはり「名演奏」です。

 

こちらは、「譜面付き」でどうぞ。

 

なお、シェリングは、「第1、第3楽章カデンツァ」を、この曲を、「広く」、世に知らしめた名演奏家、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)の書いたもので弾いています。

 

 

 

 

テーマが「ベートーヴェン」のこれまでの記事。

 

「記念サイト」もまだあります...。

 

 

 

さて...。

 

 

 

「夏に相応しい曲」ということで、このタイミングで、「この曲」を行ってみましょうか...。

 

 

 

ベートーヴェン(1770-1827)の「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」(1806)。

 

 

 

「メンデルスゾーン」(1844)、「ブラームス」(1878)のものと並んで、「3大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれている「名曲」です...。

 

 

 

1805年11月、心血を注いで書き上げたオペラ、「レオノーレ(第一稿)」(後の「フィデリオ」op.72。1814年完成)が、フランス・ナポレオン軍による「ウィーン占領」という事態もあって「失敗」に終わったことから、「友人たちの勧め」や「助言」を受け入れ、「改訂」することを決めましたが、その「第二稿」(1806年3月29日より、「一般市民」を対象に上演)もやはり、「成功」には至らず、ついには、ベートーヴェンが自ら、上演を「取り下げる」ことになってしまいました。

 

 

そんな「苦い経験」から、ベートーヴェンは再び、「室内楽曲」や、「交響曲」など、「管弦楽曲」の方へ眼を向けることにもなっていったのですが、こうした中で「完成」させた曲のひとつが、「交響曲第4番 変ロ長調 op.60」(1806年10月頃には完成)でもあったのです。

 

 

「交響曲第4番 変ロ長調 op.60」についての記事

 

 

 

ラズモフスキー伯爵(1752-1836)に献呈された、3曲の、いわゆる「ラズモフスキー弦楽四重奏曲」(「第7番 ヘ長調」、「第8番 ホ短調」、「第9番 ハ長調」 op.59-1~3)、また、「ピアノ協奏曲第4番 ト長調 op.58」といった、「大曲」で「名曲」が、比較的「短期間」で、次々と「完成」していったことから、「充実した1年」とも言えるこの「1806年」ではありますが、一方で、「後援者」であるリヒノフスキー侯爵(1756-1814)との「ケンカ別れ」や、実弟(カスパール・アントン・)カールの「結婚」に関する「トラブル」もあって、まさに、「ジェットコースターのような1年」だったとも、言えるのかも知れません...。

 

 

(また、この年に生まれた、弟カールの息子の名もカールですが、後に、度々「問題」を起こし、ベートーヴェンを悩ませ続けたのが、この、「甥」のカールです)

 

 

 

そうした1年の、「最後」に完成したのが、今回の曲、「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」だったのですが、やはり「面白い」ことに、この曲にも、「独奏者」との間に、「逸話」が残っていました...(「クロイツェル・ソナタ」の時の「ブリッジタワー」みたいに...)。

 

 

 

1794年、ウィーンでの演奏会にて、ベートーヴェンが、その「演奏」を聴いたことが「きっかけ」となって、「交友関係」が始まった、「ヴァイオリンの神童」、フランツ・クレメント(1780-1842)...。

 

「8歳」で「デビュー」したクレメントは、その後、1802年から11年まで、「アン・デア・ウィーン劇場」の「首席ヴァイオリン奏者(コンサートマスター)」、および、「指揮者」を務めるほどの「実力」を持っていましたが、1805年4月7日の、ベートーヴェン自身の指揮による「交響曲第3番 変ホ長調 op.55 "英雄"」(1804)の「公開初演」の際、クレメントも、自身が作曲した「ヴァイオリン協奏曲」(「6曲」のうちのそのひとつで、やはり「ニ長調」)を、自ら「初披露」したということです。

 

 

そのフランツ・クレメントが、あらためて、ベートーヴェンに作曲を「依頼」したのが、今回の「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」ということなのですが、1806年12月23日に、自らが主催する「チャリティーコンサート」で弾きたいとしながらも、その「申し出」があったのは、何と、「1ヶ月前」(たぶん「11月下旬ごろ」...)になってからのことだと言われています...。

 

 

今回のこの曲の「規模」を見ても、まさに「そんな無茶な...」という感じがしますが、ベートーヴェンは、ようやく「再開」することが出来ていた、「交響曲第5番 ハ短調 op.67(「運命」)」(1808年完成)の作曲を、再び「中断」してまで、この「ヴァイオリン協奏曲」の作曲に「専念」せざるを得なくなりました...(「断れない事情」も、やはり「あった」のでしょう。また、「交響曲第5番第1楽章」のスケッチに、この曲の「主題」が書き込まれたものも「ある」ということです...)。

 

 

そのために、「公演直前」まで、曲は完成することがなく、クレメントは、「初見」で演奏することになりましたが、一説によれば、それを「狙っていた」ところもあるらしく、「それほどの腕前」だと、「自慢」したかったのだろうとする向きもあります(実際、「喝采」を浴びたのは、クレメント自身による、「曲芸的演奏」が見られた曲の方だったということです...)。

 

 

ベートーヴェンは自ら、楽譜の冒頭に、次のように記したということです。

 

 

 

par clemenza pour Clement

 

(クレメントのために、「クレメンツァ(お情け)」をもって書かれた作品)

 

 

 

これは、言うまでもなく「ダジャレ」であり、「クレメンツァ」が「イタリア語」の他は、「フランス語」にて書かれた「献辞」です。

 

 

しかし、これらのエピソードにもかかわらず、1808年8月、楽譜が出版された際、実際に「献呈」を受けたのは、古くからの友人である、シュテファン・フォン・ブロイニング(1774-1827)でした...。

 

 

 

以下は「参考記事」です。

 

 

 

 

 

 

この曲は、当時の観客や、評論家の理解を大きく超えるもので(特に「長さ」が...)、お世辞にも、初演の評判は良くありませんでした。

 

 

そのため、その後演奏されることは、ほとんどなくなってもしまっていたのです...。

 

 

翌1807年4月、ベートーヴェンは、ピアニストで、作曲家でもある出版商、ムツィオ・クレメンティ(1752-1832)の勧めにより、この曲を「ピアノ協奏曲」に「編曲」し、そのちょうど「1年後」の1808年4月、シュテファン・フォン・ブロイニングと結婚したユリー・フォン・ヴェリングへ、「祝い」の意味も込めて「献呈」しました。

 

 

が、何と言うことでしょう、その翌年、ユリーは、若くして「急逝」してしまいました...(1791-1809)。

 

 

 

こちらが、その、「ピアノ協奏曲」に「編曲」された版での演奏です(「op.61a」)。

 

 

「原曲」では、ベートーヴェン自身は、「第1、第3楽章カデンツァ」(こちらの動画では、「17分38秒頃」からと「39分46秒頃」から)を書いてはいませんが、この「ピアノ協奏曲編曲版」では、自ら楽譜に書き込み、しかも、「第1楽章」のものは、「ティンパニ」を伴う、「125小節」という「長い」ものです。

 

バレンボイムによる、「弾き振り」(独奏/指揮)の演奏もありました。

 

 

ベートーヴェンには、「皇帝」の呼び名で知られる、「第5番 変ホ長調 op.73」(1809)までの、5曲の「ピアノ協奏曲」がありますが、もう1曲、「かなりの部分」を書いているものの、「未完成」に終わった、「第6番 ニ長調 Hess 15」(1814-15)が「発見」されています。

 

しかしながら、上掲の曲、「ピアノ協奏曲 ニ長調 op.61a」は、「編曲」とは言え、ベートーヴェン自身によって「完成」された作品であることから、こちらを「第6番」と呼ぶこともあります(「ひとつめ」の動画のタイトルを参照)。

 

 

 

(参考)「ピアノ協奏曲第6番 ニ長調 Hess 15」(1814-15, 未完)

 

イギリスの音楽学者ニコラス・クック(1950-)により「補筆完成」(1987年)された、「第1楽章」演奏の一例です。

 

 

 

この演奏の他にも、「検索」すると、いくつか、「演奏例」がヒットします。

 

 

 

今回の曲、「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61」の楽曲の構成は、非常に大きなもので、すでに「古典派」の域を超え、後の「ロマン派」を思わせるものです(ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77」もまさに、「この曲の影響」を受けていると思われますが、はるか「後世」の、1878年の作品です)。

 

 

そのため、1806年当時に、この曲が受け入れられなかったとしても、決して「不思議」ではないでしょう。

 

 

ほとんど「交響曲」のような構成で、「管弦楽のみ」、「独奏ヴァイオリンのみ」で(「リレー」のように)演奏される箇所がとても多く、「主題」も、「運命交響曲」などのような「激しい」ものではないことから、

 

 

「この作品の多くの美しさは認めるが、音楽の関連がしばしば全く断ち切られているように思われ、若干の平凡な箇所が際限なく反復されて聴衆を飽きさせてしまう...」

 

 

という「批評」につながったことは、至極「当然」のことだと思います。

 

 

 

「協奏曲」というからには、もっと、「独奏楽器」と「管弦楽」との「(時には「スリリング」なほどの)やりとり」が「期待」されたことでしょうし、「人気ヴァイオリニスト」であれば、「曲芸(ヴィルトゥオーソ)的」な演奏も、「期待」されていたことだと思います。

 

 

「第1楽章」だけで「約25分」と、これだけで、当時の「3~4楽章制」の楽曲の長さにまで達してしまうということですから、やはり、「聴く」には、それなりの「訓練(慣れ)」は絶対「必要」です。

 

 

「第1楽章」を聴いていると、私には、むしろ、シューベルト(1797-1828)の作風に「近い」とすら感じられます。

 

 

 

そんなわけで、当時は、ほとんど「忘れられた」といってもよいくらいの作品でもあったのですが、やはり、「ロマン派」の時代になって、その「再評価」が進み、「認識」も変わって来ました...。

 

 

その「立役者」となったのが、メンデルスゾーン(1809-47)に師事し、後にシューマン(1810-56)、そして、ブラームス(1833-97)らの「友人」ともなった、ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)でした。

 

 

(1844年、メンデルスゾーンの指揮のもと、この曲を弾いて、見事な「ロンドン・デビュー」を果たしたヨアヒムは、当時、わずか「13歳」でした...)

 

 

 

ヨアヒムは、この作品を、

 

 

「最も偉大なヴァイオリン協奏曲」

 

 

と呼んで、生涯にわたって弾き続け、この曲を「スタンダードな作品」にしたばかりか、実際に、

 

 

「ヴァイオリン協奏曲の王者」

 

 

と呼ばれるまでの地位に「押し上げた」のでした...。

 

 

 

ブラームスは、そんなヨアヒムの弾く、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」に深く「感銘」を受けており、

 

 

「この偉大な作品を超えたい」

 

 

と考えたとしても、何ら、不思議なことではなかったでしょう...。

 

 

 

そうして書かれた、ブラームスの「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77」(1878)もまた、ベートーヴェンの作品と「並び称される」ほどの「大傑作」なのです...(「この曲」については、上掲の「リンク」からどうぞ...)。

 

 

(なお、「ニ長調」というのは、ヴァイオリンにとって、「最も相性の良い調性」であるとも言われています)

 

 

 

さて、「協奏曲」では、「独奏者」がその「腕」を「発揮」する、「カデンツァ」と呼ばれる部分が「挿入」されるのが普通で、「両端楽章」によく見られるものですが、中でも、「重要」と思われる(「私見」です...)のが、「第1楽章(終了目前)」の「クライマックス」で挿入されるものです。

 

ベートーヴェンは、自ら「必要ない」と指示している、「ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73 "皇帝"」(1809) を除いては、この「カデンツァ」を、すべて、自身の手で書き入れていますが、「ヴァイオリン」の「腕」は、やはり、「ピアノ」ほどではなかったのでしょう。

 

この協奏曲の「カデンツァ」(「第3楽章」のものも含む)は、「演奏者に任せる」ということからか、自身では書いていません...。

 

 

そのため、この部分は、多くが、「演奏家(作曲家)」が、「自身」で書いたものを演奏していたようですが、「現在」では、その中でも「有名」なものを、「選択」して弾くことが「普通」となっています(中には、ベートーヴェン自身が書いた、上掲の「ピアノ編曲版」のものを弾いている演奏家もいます)。

 

私が知っているのは、ヨアヒムとクライスラーのものですが、私の聴いている演奏家では、やはり、クライスラーの方が「多い」ようにも感じられます...。

 

 

 

それでは最後に、「ヴァイオリン協奏曲」のCDでは、よく「カップリング」されてもいる、「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」の2曲を、あわせて載せておくことにいたしましょう...。

 

「第1番 ト長調 op.40」(1802)。

 

 

「第2番 へ長調 op.50」(1798)。

 

こちらの方が、実際には「先」に作られた作品です。

 

また、この曲は、「聴いたことがある」方も「多い」のではないでしょうか...。

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

それではまた...。

 

 

(daniel-b=フランス専門)