「名演」として推したい、名指揮者エドゥアルト・ファン・ベイヌム(1901-59, 「1900年生まれ」とする文献もあります)と、アムステルダム(ロイヤル)・コンセルトへボウ管弦楽団による、1958年の録音です。前任のメンゲルベルク(1871-1951)とは対照的な、「現代的な解釈」により、このオーケストラの地位の「向上」に大きく「貢献」したベイヌムでしたが、「病気がち」でもあり、1959年4月13日、この曲の「リハーサル中」に「心臓発作」で倒れ、「急逝」しました。
そのベイヌム&コンセルトへボウ管の、1951年の録音も「名演」です。
こちらは、その「前任者」である、メンゲルベルクの指揮による録音(1940年ライヴ)で、「第4楽章」です。「ロマン的」な解釈であり、メンゲルベルクの「個性」が強く感じられる演奏です。
ブラームスでは特に素晴らしい解釈を見せた、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(1923-2013)の、「N響」とのライヴ録音も見つけました。サヴァリッシュは、「晩年」にもN響を指揮して、この曲の「名演」を聴かせてくれました。
こちらはカール・ベーム(1894-1981)指揮、ベルリン・フィルの録音ということです。「譜面付き」でどうぞ。
さあ、いよいよ「2019年」も幕を開けました。
「昨年の暮れ」には、「年末に似合う曲」として、アントニーン・ドヴォルザーク(1841-1904)の、おなじみ、「交響曲第9番ホ短調 op.95 "新世界より"」(1893)をお届けしました。
https://ameblo.jp/daniel-b/entry-12428974951.html(「新世界交響曲」の記事)
そこで今回は、「新しい1年のスタート」に相応しい曲として、この、ブラームス(1833-97)の「交響曲第1番ハ短調 op.68」(1855-76)で行ってみたいと思います。
この曲は、「大変な労作」として知られているものですが、「評価」も、その「苦労」に見合った、とても「高い」もので、ブラームスの「交響曲」の中でも、最も演奏機会の多い、「大傑作」と言えるものです。
1853年、後に「ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.77」(1878)の「初演者」ともなったヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)と出会ったブラームスは、彼の勧めで、9月の終わりに、シューマン(1810-56)のもとを訪ねます。
シューマンは、ブラームスの音楽と、その「ピアノ演奏」を高く評価し、音楽雑誌「新音楽時報」にもそのことを書いています。
このことがきっかけで、ブラームスの作品が世に知られるようになったといい、彼は、シューマンを強く「尊敬」するようにもなったということです。
しかし、その頃にはすでに、シューマンは「精神の障がい」に悩まされていました。そんな中でのブラームスとの出会いは、「一条の光」とも言えるものでしたが、それでも、翌1854年2月27日には、妻クララ(1819-96)と、医師が話をしている間に家を抜け出し、「ライン川」に身を投げてしまいます。幸い、この時は、すぐ近くにいた漁師によって救助され、一命を取り留めました。
その後、ボン近郊エンデニヒの療養所(現「シューマン記念館」)に入所したシューマンは、1856年7月29日に世を去ってしまいますが、それまでの間、ブラームスは、クララの手助けをするため、主に、デュッセルドルフに滞在していました(若いブラームスは、クララに「密かな恋心」も抱いていましたが、結局は、「叶わぬ夢」に終わります)。
そんな中、たまたま故郷「ハンブルク」へ戻ったブラームスは、1855年4月、そのシューマンの「マンフレッド序曲」(劇音楽「マンフレッド」op.115より。1852年の作品)を聴いて感動し、「交響曲」の作曲を思い立ったということです。
こちらが、その「マンフレッド序曲」です。
しかしながらブラームスは、当時、管弦楽曲はおろか、室内楽曲さえも、まだ本格的には取り組んでいませんでした。
「自己批判の強い」(自分に厳しい)ブラームスは、「19歳以前の作品」をすべて「廃棄」してしまったほどで(「記録」にのみ残っているということです)、また、「交響曲」というからには、ベートーヴェン(1770-1827)の、あの「偉大な9曲」を「超える作品」でなくては「意味がない」とも考えていたようです。
近代指揮者の「パイオニア」とも言えるハンス・フォン・ビューロー(1830-94)に宛てた手紙でも、「ベートーヴェンという巨人が、背後から行進してくるのを聴くと、とても、交響曲を書く気にはなれない」と打ち明けています。当時の観客にも、ベートーヴェンの「不滅の9曲」を受け継ぐような作品を「待望」しているようなところがあったといい、その「重圧」が、「言葉に出来ない」ほどのものであったことは、容易に想像することが出来ます。
1855年夏、ハンブルクでさっそく着手されたこの「交響曲第1番」は、デュッセルドルフへ戻っても作業が続けられました。最初は、「2台のピアノ用」に曲を書き、これを「管弦楽曲」に「編曲」する計画で進められましたが、「第3楽章」まで「スケッチ」が書き進められたものの、この頃にはまだ「管弦楽」の「経験不足」から、作曲は「中断」されてしまいました。
1862年になって、以前のスケッチをもとに、「第1楽章」を書き上げたとのことですが(夏ごろ)、友人で音楽家のアルベルト・ディートリヒ(1829-1908)によれば、当時はまだ、「序奏が書かれていなかった」ということです。クララ・シューマンもその楽譜を見たということで、その「感想」を、7月1日に、ヨーゼフ・ヨアヒムにも伝えています(クララは、14年後に「完成版」の演奏を聴いてもいますが、その「第1楽章」の主な部分は、最初に見た楽譜と「まったく同じだった」と述べています)。
ブラームスは、決して「筆が遅い」というわけではありませんでしたが、「大作」ともなると、やはり「話は別」なようです。結局、その後また、この交響曲の筆は止まってしまいました。
時を同じくして、ブラームスは、「ドイツ・レクイエム op.45」(1857-68)も書き進めていました。
「大恩人」であったシューマンが亡くなったことから、彼を「悼む」意味もあって、1857年から59年にかけて、早くも第2楽章「人はみな、草のごとく」を「完成」させたということですが、こちらもやはり、その後、筆は「止まってしまった」ようです。しかし、1865年には「母」が世を去ったこともあり、その完成が「急がれる」ことにもなりました。
その「ドイツ・レクイエム」や、「ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 op.15」(1854-58)には、当初、この交響曲の「アイディア」であったものが、「転用」されているという説もあります(「真実」かどうかは、現在でも「よく分かっていない」とのことですが...)。いずれにせよ、これらの曲は、シューマンや、母を悼んで書かれたものには違いありません。
その後、1874年頃になって、ブラームスは再びこの交響曲の作曲に戻って来ました。
前年の1873年には、「ハイドンの主題による変奏曲 op.56a」(先に完成した「2台ピアノ版」が「op.56b」)が完成したことから、「管弦楽」の扱いにも「自信」がついて来たようでした。
その「ハイドンの主題による変奏曲」です。こちらも、1958年録音の、ベイヌム指揮アムステルダム(ロイヤル)・コンセルトへボウ管弦楽団の名演でどうぞ。
当時のブラームスは、英ケンブリッジ大学の「名誉博士」の称号を受けることにもなりましたが、「それをもらいに出かけるよりも、もっと重要な仕事がある」として、この交響曲の「完成」を急ぎました。
それでもなかなか完成せず、推敲に推敲を重ねて、ようやく完成したのは、1876年9月のことでした。
「着想」からは、何と「丸21年」!!
「22歳」だったブラームスも、すでに「43歳」となっていました。
初演は、その2ヶ月後の「11月4日」のことでしたが、その際も、指揮を務めた友人オットー・デッソフ(1835-92)の意見を受け入れ、第3楽章に「修正」を加えたと言います。また、出版(1877年11月)までにも再び手が加えられ、現在聴くことが出来る「第2楽章」は、「初演版」とはかなり「違った」曲になっているということです。
この曲を聴いた先述のハンス・フォン・ビューローが、「これは"第10交響曲"だ!!」と「絶賛」したこともよく知られています。これはもちろん、あのベートーヴェンの「偉大で不滅の9曲」に「続くもの」、という意味ですが、その、「新古典主義」とも見られる中にも、「ロマン派」的な香りも感じられる作品に仕上がっています。
この曲を聴くと、その「苦労」が、「確かに分かる」ほどの「重々しさ」が感じられます。「第1楽章」の「序奏」は、非常に「重苦しい」雰囲気ですし、主部の「第1主題」も、もの凄い「力の入りよう」だと感じます。しかし、それだけに、その音楽の持つ「重み」もまた感じることが出来ます。つまりは、大変「感動的」な音楽だということです。
「第2楽章」は、「オーボエ」、「ホルン」、そしてことに、「第1ヴァイオリン」による印象的な「ソロ・パート」があることでも特筆されます。「交響曲」というジャンルでは、少し「珍しい」かも知れません。
「第3楽章」は、珍しい「間奏曲」風ですが、暗に「メヌエット」を思わせてもいます(通常、この位置には、「スケルツォ」、または「メヌエット」が入ります)。中間部では、ブラームスが好んで用いた2種類の「動機」(「運命の動機」/「死の動機」)が登場しますが、「ベートーヴェンのそれ」を思わせもすれば、「シューベルト的」な印象も受けます。いずれにせよ、「大変印象に残る」楽章です。
「第4楽章」は、「劇的」なフィナーレです。こちらも、「重苦しい」序奏から始まりますが、その後半では、ブラームスがクララの「誕生日祝い」のために書いた歌(1868年作)の旋律が、ホルンによって奏されます(この旋律は、元は、「アルプスのホルン」によるものだと言われています。ブラームスは、その歌の「歌詞」を書きました)。それに続く、トロンボーンとファゴットの旋律は、「古い聖歌」によるものだということです。
そしていよいよ「主部」に入るのですが、この部分が、ベートーヴェンの「第9交響曲」(1822-24)の「第4楽章 歓喜の歌」に「似ている」と言われていることもまた「有名な話」です。しかしながら、実際には、ブラームスによるまったくの「オリジナル」であり、その「展開方法」も、はっきり「異なって」います(ブラームスも、「愚かな人が、すべてを同じようなものとして聴くのは、もっと珍妙なことではないか」と話しています)。いかにも「ロマン派風」の「歌謡主題」ですが、その後の展開は、実に「堂々」としたものです。この楽章だけでも、聴く価値は充分に「ある」と思います。そして、この「フィナーレ」の、いや、この「交響曲」の最大の「クライマックス」と言えるのが、やはり、その「コーダ(終結部)」です。
「勇壮」で、「壮大」な、このコーダに「突入」すると、いつも心が「躍り」ます。
「紆余曲折」の末、「21年」もかかって書き上げられたこの「大傑作」。その「偉大な作品」の「締めくくり」がまさに「これ」なのです。私としても、「指揮棒」を振り回したくもなりますし、思わず「ガッツポーズ」すら出たりもしますね。それほど「感動的」なのです!!
ブラームスは、その後、翌1877年に「第2番ニ長調 op.73」を、1883年に「第3番ヘ長調 op.90」(「第3楽章」が、映画「さよならをもう一度」で使われ、「有名」)を、 1885年には、自ら「最高傑作」と呼んだ「第4番ホ短調 op.98」を次々と完成させました。「第1番」に「21年」もかかったことから考えれば、「信じられない」感じもしますが、どれも「内省的」で「深い」内容であり、その「円熟した技法」からも、大変「価値のある作品」だと言えると思います。
ベートーヴェンという「巨人」の存在を、常に「意識」しながら書き進めたこの「交響曲第1番」。
ベートーヴェンの「運命」(「交響曲第5番」)と同じ「ハ短調」(この調性は、ベートーヴェンにとっても「大きな意味」を持つものでした)であることからも、この曲に賭けたブラームスの、並々ならぬ「決意」が感じ取れると思います。
「1年のスタート」には「ピッタリ」のこの曲。お聴きになったことのない方も、この機会にぜひ、聴いてみてはいかがでしょうか。
それではまた...。
![]() |
ブラームス:交響曲第1番
Amazon |
![]() |
ブラームス:交響曲第1番
Amazon |
![]() |
ブラームス:交響曲第1番
Amazon |
![]() |
ブラームス:交響曲第1番
1,130円
Amazon |
![]() |
ブラームス:交響曲第1番、ハイドンの主題による変奏曲
1,090円
Amazon |
![]() |
ブラームス:交響曲第1番/R.シュトラウス:交響詩「死と変容」
2,959円
Amazon |
(daniel-b=フランス専門)





