この曲の「原典版の復活」に「大きく貢献」したのが、スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97)です。

指揮者としても有名で、日本でもおなじみのウラディーミル・アシュケナージ(1937-)が、1982年5月6日に「東京厚生年金会館」で聴かせた「名演奏」です。

アルフレート・ブレンデル(1931-)にも、1985年の名演奏がありますが、あいにく、「全曲」でのアップがありませんでしたので、とりあえず、最終曲「キエフの大門」をどうぞ。

有名な「ラヴェル編曲版」は、1991年10月15日、「サントリーホール」で行なわれた、「オランダ女王来日記念コンサート」からどうぞ。

「世界5大オーケストラ」の1つ、「ロイヤル(旧称:アムステルダム)・コンセルトへボウ管弦楽団」は、「いぶし銀の音色」と言われていましたが、「創立100周年」である1988年に「常任指揮者」に就任したリッカルド・シャイー(1953-)は、創立以来「初めて」の「外国人(イタリア出身)」であり、この「伝統的」なオーケストラに「新風」を吹き込みました。

冒頭には、日本、オランダ、両国の「国歌」も演奏されています。

指揮者ストコフスキー(1882-1977)による編曲も知られています。「ラヴェル版」ほどメジャーではありませんが、「ロシア的」な編曲であり、ソ連国内でも「好評」だったということです。このムソルグスキーの「肖像画」(レーピン)は大変有名なものですが、「最晩年」に描かれたものです。

さて、今回も、「この季節に合う名曲」として、ちょっと選んでみました。

この作品の登場です。

 

今回の曲は、「標題音楽」であり、「親しみやすい曲」でもあることから、知っている方も多いかと思います。

 

「ロシア5人組(国民楽派)」の1人で、19世紀後半に活躍した作曲家、ムソルグスキー(1839-81)の「代表作」として有名な、組曲「展覧会の絵」(1874)。

 

今回は、この作品について書いてみたいと思います。

 

1870年頃、ムソルグスキーは、「建築家」で、「画家」でもあったヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)(1834-73)と「親交」を結ぶことになりました。

 

ハルトマンは、外国を旅して、「水彩画」、「鉛筆画」を残していますが、伝統的な「ロシア」のモチーフを自作に採り入れた最初の美術家でもありました。また、1862年に、ノヴゴロド(サンクトペテルブルクの南東、モスクワの北西に位置する都市)に建立された、「ロシア建国一千年記念碑像」のデザインを手がけたことでも知られています。

 

ムソルグスキーとは、ロシアの有名な芸術評論家である、ウラディーミル・スターソフ(1824-1906)の紹介で知り合ったということですが、何と、そのわずか3年ほど後に、彼は、「動脈瘤」によって「急逝」してしまったのです。

 

実は、それ以前から、ハルトマンの「体の異常」に気付いていたというムソルグスキーは、「落胆」に加え、「自責の念」に駆られていたことが、当時の「手紙」からも「分かる」ということです。

 

若い芸術家の「親代わり」でもあったスターソフは、ハルトマンの作品の「整理」や、彼の妻への「援助」を目的に、その「遺作展」を開くことにしました。年明け、1874年の2月から3月にかけて、この「遺作展」が、彼の母校、「ペテルブルグ美術アカデミー」で開催されましたが、集められた作品は、何と「約400点」にも上ったそうです。

 

その「遺作展」に「深い感銘」を受け、ムソルグスキーは、この、「展覧会の絵」の作曲に取りかかりました。

 

6月24日にスターソフに宛てて書かれた手紙には、「アイディアが煮えたぎっていて、紙に書く暇がない」、「間奏(プロムナード)と、(前半の)4曲を書いた」と書かれており、この作品は、「筆の遅い」ムソルグスキーにしては、「異例の速さ」とも言える、「約2~3週間」で、一気に作曲されたと見られています(完成は「7月4日」とのことです)。

 

しかしながら、この「展覧会の絵」は、ムソルグスキーの「存命中」には、1度も演奏されることなく、また、「出版」もされないままに終わったということです。

 

「公務員」でもあったムソルグスキーでしたが、身近な人々の「死」などの「心労」からか、「アルコール依存」の傾向が強まり、仕事も「休みがち」となったため、1880年には、その地位を「追われる」ことになってしまい、生活はたちまち「困窮」に追い込まれました。

 

この頃には、ムソルグスキー自身も、この作品にそれほど「関心」を示さなくなっていたと言われています。翌年初めには、4度もの「心臓発作」に見舞われることになり、入院もしましたが、「3月28日」に、ついに、その生涯を終えることになってしまいました。

 

ムソルグスキーの有名な「肖像画」(上掲5番目の映像を参照)は、この頃に、(スターソフの「依頼」もあって、)画家イリヤ・レーピン(1844-1930)によって描かれたものです。「死期」が近く、かなり「やつれた」印象ですが、一般的には、その肖像画が大変よく知られていると思います。

 

このように、下手をすると、この曲も一般に「知られることなく」終わっていたのかも知れません。しかし、「名曲」には、必ず、何らかの「救いの手」があるものです。

 

同じ「ロシア5人組」の1人であった作曲家、リムスキー=コルサコフ(1844-1908)が、ムソルグスキーの「遺稿」を整理し、この「展覧会の絵」は、1886年に、ついに「陽の目」を見ることになりました。

 

しかしながら、「常識人」であったリムスキー=コルサコフは、その「独創的で斬新」な書法を、「常識的」に書き直してしまったという面もあり、このことについては「批判」の声もありますが、とにかく、この作品を「世に出した」ことには違いはありません。彼の手による「改訂版」は、現在では、「リムスキー=コルサコフ版」と呼ばれ、「区別」されています。

 

もう1つ、この作品を「世界的」に有名にしたものがあります。それが、ラヴェル(1875-1937)による「オーケストラ編曲版」(1922)です。

 

ラヴェルは、当時のフランスではとても評価が高かった、ムソルグスキー作品の「編曲」に、大変「乗り気」であったと言います。そのため、「自筆譜(原典版)」の入手を「強く」望んでいたとのことでしたが、そこまでは叶わず(完全な「公開」は、何と「1975年」だと言うことです)、やむを得ず、「改変」を承知で、当時の「リムスキー=コルサコフ版」からの編曲となったようです。

 

他に、20世紀の有名指揮者であるレオポルド・ストコフスキー(1882-1977)による編曲も知られています。前述の「ラヴェル版」が、「著作権の縛り」や、「初演者(「依頼者」でもある、クーセヴィツキー)」による「独占」のため、当時は、様々な「編曲版」があったと言われていますが、中でも、この「ストコフスキー版」は、「ロシア的な原曲の雰囲気に忠実」ということで、ロシア(ソ連)国内でも「好評」だったようです(「ラヴェル版」とは曲数が異なります)。

 

「変わりダネ」とも言えるものが、この、エマーソン、レイク&パーマーによる「ロック版」(1970)です(興味のある方はどうぞ)。「プログレ」のグループだけあって、そのサウンドは「斬新」です(「オリジナル曲」も含まれています)。この演奏以降、「ポピュラー音楽界」でも「アレンジ版」が多く作られるようになりました。

 

さて、「原曲」に戻りましょう。

 

「ラヴェル編曲版」が人気を得たために、次第に、「原曲」も注目されるようになって来ました。しかしながら、「難曲」でもあることから、この曲を弾くピアニストは限られ、また、「編曲版」が「原曲」のような認識でもあったということです。その上、当時は、リムスキー=コルサコフによって「改訂」された版が「主流」でした。

 

ムソルグスキーの「原典」に「忠実」な演奏として注目を集めたのが、20世紀を代表する偉大なピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97)による、ブルガリア・ソフィアでのライヴ(1958年2月25日)でした。

 

「東西冷戦のさなか」でもあったことから、当時のリヒテルは、「西側諸国」では、「幻のピアニスト」と呼ばれていました。しかし、この録音が「西側」で「レコード」として発売されたために、「ついに幻のヴェールを脱いだ」とも評されました。そして、それまではなかなか聴くことが出来なかった「原典版」が、一気に「注目」を集めるようになり、これ以降は、「原典版」による演奏が「当然」ともなりました。また、それまでは、「ラヴェル編曲版」が「圧倒的人気」だったということですが、この「原曲」も、演奏機会が増え、「人気曲」となって現在に至っているというわけです(ちなみに、リヒテルは、「ラヴェル編曲版は嫌いだ」と公言しています)。

 

音は「イマイチ」ですが、リヒテルの「ソフィア・ライヴ」(1958)の音源もどうぞ(この録音は、後に「リマスター」され、「ノー・ノイズCD」として発売されました。私は、それを持っています)。

 

それでは、簡単ですが、「各曲」の紹介です(今回載せている映像は、動画サイト側で、各曲の「頭出し」が出来るものもあります)。

 

オリジナルの「ピアノ版」の全曲は以下の通りです(私も、やはり、「ピアノ版」の方が好きです...)。

 

1.プロムナード

2.こびと

3.プロムナード2

4.古城

5.プロムナード3

6.テュイルリーの人々(遊びの後の子どもの口げんか)

7.ブイドロ(牛車)

8.プロムナード4

9.卵の殻をつけた雛のバレエ

10.サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ(2人のユダヤ人)

11.プロムナード5

12.リモージュの市場

13.カタコンブ

14.死せる言葉による死者への話しかけ

15.バーバー・ヤーガの小屋(鶏の足の上に建つ小屋)

16キエフの大門

 

ところどころで現われる「プロムナード」とは、ムソルグスキー自身が、展覧会会場を「歩いている」様子を表したもので、「その1つ1つの中に、自分自身の顔が表れている」とも述べています。

私としては、「セレモニー会社」のCMでよく聴いていたことを思い出します。「人は、それぞれの心の中に風景を持っている。それを追い求めて、人は旅を続ける」といったコピーだったでしょうか。とても印象に残りました。「遠い昔」の話ですが、これが、この曲を知った「きっかけ」でもあります。

 

「こびと」は、地底の宝を守るこびとが奇妙な足取りで歩くさまを、「古城」は、中世の古城の下で吟遊詩人が歌うさまを描いています。

 

「テュイルリーの庭」は、遊び疲れた子どもたちがけんかをしている様子を、「ブイドロ(ビドロ)」は、ポーランドの牛車がぬかるんだ道を行く、その「重苦しい」様子が描かれています。

 

「卵の殻をつけた雛のバレエ」は、バレエ「トリルビ」のために描いた衣装のデザインを、「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」は、「尊大で金持ち」の男と、「卑屈で貧乏」な男の「会話」を描いています。

 

「リモージュの市場」は、街の市場で「言い争い」をしている女たちの姿が描かれ、「カタコンブ」では、古代ローマ時代のキリスト教徒たちの「墓」が描かれています(続く、「死せる言葉による死者への話しかけ」も、「同じ絵」がテーマです)。

 

「バーバ・ヤーガの小屋」は、めんどりの足の上に立っている、妖婆バーバ・ヤーガの小屋の恰好をした、「時計のデザイン」に基づいているということです。

 

終曲、「キエフの大門」は、キエフの入口にある、古代ロシア風の巨大な門の「図案」ということです。この、「輝かしく、堂々たる」終曲は、やはり「プロムナード」の「変奏」の1つでもあり、「壮大」な曲想とともに、「見事な構成力」をもって、この「一大組曲」をまとめあげているのです。これは、ベートーヴェン(1770-1827)の「ディアベッリ変奏曲 op.120」(1823)の「終曲」をも思い出させるものだと言えると思います。

https://ameblo.jp/daniel-b/entry-12380477553.html?frm=theme(参考:「ディアベッリ変奏曲」の記事)

 

というわけで、今回は、ムソルグスキーの、組曲「展覧会の絵」について書いてみました。「クラシック音楽」のジャンルにおいては、今月(今年)中に、「あと2本」の記事を予定しています(「予定」通り書けるかな...)。どうぞ、ご期待ください。

 

それではまた...。

 

 

 

 

 

(daniel-b=フランス専門)