(1985年盤。アラウ「円熟」の名演奏です)

(1952年盤。動画サイト側で、各曲の「頭出し」が可能です)

「6月9日」は、20世紀を代表する、偉大なピアノの「マエストロ(巨匠)」(南米・チリ出身)、クラウディオ・アラウ(1903-91)の「命日」です。

 

2年前には、「没後25周年」を記念して、次の記事を書いています。

こちらでは、(不完全ながら、)ベートーヴェン(1770-1827)の最後のピアノソナタ、「第32番 ハ短調 op.111」(1822)を採り上げています。

https://ameblo.jp/daniel-b/entry-12168745190.html#iine

 

今年は、「生誕115周年」(誕生日は「2月6日」です)にも当たっていますから、それを「記念」する意味でも、「ベートーヴェン弾きの大家」、アラウの名演奏で、この曲を聴いてみることにしましょう。

 

今回採り上げた曲は、先述の「ピアノソナタ第32番 ハ短調 op.111」と並んで、ベートーヴェン晩年の「最高傑作」とも呼べる、ピアノ曲の名作、「ディアベッリ変奏曲 op.120」(1823)です。

 

正式には、「アントン・ディアベリのワルツによる33の変奏曲 ハ長調」(「33 Veranderungen uber einen Walzer von Diabelli」)と言いますが、原題にある「Veranderungen」とは「変容」を意味し、もはや、「変奏曲」という「枠」を「超越」してしまっています。

一般には、「ディアベッリ変奏曲」(「Diabelli-Variationen」)という「通称」も用いられますが、あくまでも、ベートーヴェンが意図したところは「変容」です。それを気に留めておくことが出来れば、この曲の理解が、より一層、「深まる」ことと思います。

 

オーストリアの「楽譜出版商」として有名なアントン・ディアベリ(アント-ニオ・ディアベッリ)(1781-1858)は、「ウィーン古典派」の「作曲家」でもありました。

 

「楽譜商」を始めて2年後の1819年、ディアベリは、オーストリア在住の作曲家や、ピアニストに、自作のワルツを送って、これを「主題」とした「変奏曲」を、1曲ずつ依頼しました。

 

こちらが、その「主題」です。

 

「祖国芸術家連盟」の名称で、「変奏曲集」を出版するというこの企画に、「50名」が「応募」しました。

この中には、シューベルト(1797-1828)もいましたし、何と、当時「11歳」(1822年に作曲し、提出)であった、リスト(1811-86)もいました。リストにとっては、この曲が、「初めて」の出版作品ともなったのです。

 

リストは、「24番目」の変奏ですが、当時「11歳」!? 「スゴイ」ですね...。

 

シューべルトは「38番目」の変奏です。

https://ameblo.jp/daniel-b/entry-12285912714.html(参考:この曲についての記事)

 

ツェルニー(チェルニー, 1791-1857)は、「4番目」の他、「コーダ」も書いています。

 

ベートーヴェンも当然、ディアベリからこの主題を受け取りましたが、「気に入らない」ばかりか、「下手な職人のつぎ当て」と「酷評」したと言われています。そのため、最初は手を付けることもしなかったようですが、近年の研究によると、この1819年、「気が変わった」ベートーヴェンは、数曲からなる「変奏曲集」にまとめようと、「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲) op.123」(1823年完成)の作曲の合間に、4種類の「スケッチ」を書いていたと言います。

 

その夏頃までには、「23」もの変奏曲が完成していたといい、その、「過剰」なまでの「反応」ぶりもうかがえますが、その後、ベートーヴェンは、「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」や、「ピアノソナタ」の作曲の方に注力したため、およそ「4年」もの間、この「変奏曲集」から遠ざかることになってしまいました。

 

その後、「ミサ・ソレムニス」が完成に近付いた1822年秋頃から、「交響曲第9番 ニ短調 op.125 "合唱付き"」(1822-24)の作曲と並行する形で、この「ディアベッリ変奏曲 op.120」も「仕上げ」に入っていたと言われています。元の素材を拡大し、第1、2、15、23~26、28、29、および、31番の変奏を書き加え、終結部を推敲し、1823年春(3~4月頃)、ついに「完成」となりました。

 

ディアベリのもとへ「応募」した「50人」に対抗するかのように、6月には、単独で、「op.(作品)120」として出版しましたが、翌年には、「祖国芸術家連盟 第1部」として「再刊」されました。この曲集の「第2部」に当たるのが、その、「総勢50人」の作曲家、ピアニストらの作品による「変奏曲集」なのです。

 

もう1人の「マエストロ」、アルフレート・ブレンデル(1931-)によれば、

 

「このディアベリの主題(ワルツ)は、少しもワルツらしくなく、よく見てみると、"メヌエット"が隠されている。滑稽なのは、この主題の"前半"と"後半"がとてもよく似ており、しかも、何か"別のもの"になろうとしていることだ。和音の反復に付けられた、"グロテスク"な4つのクレッシェンドは、この主題に独特な要素だが、ベートーヴェンは、この変奏曲の中では、それほど注意を払ってはいない」(要約)

 

とのことですが、この、「凡庸」とも言えるディアベリの主題が、ベートーヴェンによって「注釈」され、「批判」され、「修正」され、「茶化」され、「嘲笑」され、「矛盾を暴かれ」、「軽蔑」され、「魔法にかけ」られ、「浄化」され、「嘆き悲しまれ」、「踏みにじられ」、終いには、「微笑みかけられる」(ブレンデル)こととなったのです。

 

それぞれの「変奏」は、もはや、音型の「装飾」にとどまらず、主題の「性格」そのものまで変えてしまうことから、ベートーヴェン自身が「変容」と記したのもうなずけますが、その中には、「ユーモア」があり、「パロディ」まであったりします。軽やかな「主題」に続く「第1の変奏」が、すでに、「厳か」な「行進曲」となっていますが、それぞれの変奏曲は、主題の中の、ほんの小さな「特徴」までもが採り上げられ(例えば、「装飾音」ですらも)、「分解され」て、「組み立て直され」ていて、まったく、飽きさせることがありません。

 

最初の映像(音源)で、「30分20秒頃」から始まる「第22変奏」は、モーツァルト(1756-91)の歌劇「ドン・ジョヴァンニ K.527」(1787)の冒頭のアリア、「夜も昼も休む間もなく」(レポレロ)が引用されています。ディアベリから催促されてこの楽想が浮かんだということですが、そのディアベリの「主題」との「類似点」が多いこの曲を、すかさず持って来るというところが、ベートーヴェン一流の「ユーモア」であり、「さすが」と言えるところでしょう。

 

「第29変奏」以降は、後期の「ピアノソナタ」の緩徐楽章を思わせる、「沈んだ雰囲気」の曲(「ハ短調」)が続きます。ここから先は、まさに「変容」であり、冒頭の主題の「陽気さ」、「無邪気さ」のようなものは、完全に消え去ってしまうかのようです。このあたりは、「要注目」だと言えるところでしょう。

 

「第32変奏」は、ヘンデル(1685-1759)風に始まる、壮大な「二重フーガ」となります。その後半では、3つもの主題が組み合わされ、「変奏の変奏」、「爆発的」とも言える「クライマックス」を築き上げているのです。

 

最後の「第33変奏」は、自身の最後のピアノソナタ「第32番 ハ短調 op.111」(1822)(冒頭のリンクからどうぞ)の、「第2楽章」にして「最終楽章」、あの有名な、「アリエッタ」の後半を思い出させるものです。この2曲を聴き比べてみれば、驚くほど、「共通点」があることがお分かりいただけることでしょう。それこそが、ベートーヴェンの、「至高の到達点」とも呼べるもので、その「崇高さ」は、もはや、「それ以上のもの」が考えられないくらいの「境地」に達していると思えるのです。

 

この「ディアベッリ変奏曲」は、J.S.バッハ(1685-1750)の「ゴルトベルク変奏曲」(1741)と並ぶ、鍵盤楽器の「大曲」で、「難曲」です。ベートーヴェンの頭の中には、当然、この曲の「存在」もあったことだと思います。

 

音楽史上に名を残す、この「ディアベッリ変奏曲」。「古典派」の曲と言うよりは、すでに「ロマン派」の域に入っており、この曲からも、「新しい時代の到来」をうかがうことが出来ると思います。

 

「楽譜付き」の動画もいくつかありましたが、こちらは、「長くもなく」、分かりやすいのではないでしょうか。「約55~60分」というのが、「標準的な演奏時間」ですが、こちらは「約46分」です。参考までにどうぞ...。

 

ブレンデルや、リヒテル(1915-97)など、この曲を弾く大家は多いですが、やはり、アラウの演奏は、「ひと味違う」とも感じます。すでに、世を去って久しいアラウですが、この演奏を聴く限り、彼の名は「永遠に残る」と言っても、決して過言ではないと思います。

 

それではまた...。

 

 

(daniel-b=フランス専門)