http://daijiro.net/index01.html(加藤大治郎公式サイト)

http://www.honda.co.jp/daijiro/(ホンダレーシング公式サイト)

 

「モータースポーツ」のファン、ことに、「オートバイレース」のファンならば、この名前は、もはや、説明するまでもないことでしょう...。

 

そう、決して、「忘れられることのない名前」...。

 

それが、加藤大治郎選手(1976-2003)なのです。

 

加藤大治郎選手は、1976年7月4日、埼玉県浦和市(現・さいたま市)に生まれました。

3歳の誕生日に、両親から「ポケットバイク」をプレゼントされたことがきっかけで、「レースの道」へと進むことになったと言います。

 

1992年に、「ロードレース」に参戦することになり、レースの度に、埼玉の自宅と、チームのある「熊本」を往復していたと言いますが、それでも、学校を休むことはなかったそうです。

 

1994年には、「国際A級ライセンス」を取得(取得には、「実績」が必要で、並大抵の努力では到達することが出来ません)。国内最高峰の「全日本ロードレース選手権GP250クラス」にフル参戦し、「TIサーキット英田(あいだ)」(岡山県美作市)では「初優勝」も成し遂げました。

 

1996年には、「ロードレース世界選手権」の「日本GP(250ccクラス)」にもスポット参戦し、見事、「3位表彰台」を獲得しています。

 

1997年には、開幕前に「交通事故」にあったにもかかわらず、医師を説き伏せ、スポット参戦の「日本GP」で、何と「優勝」を飾ります。

その後の「全日本選手権」でも「8勝」を上げ、初の「全日本チャンピオン」に輝きました。

 

2000年からは、いよいよ「世界選手権250ccクラス」にフル参戦となります。

 

イタリアのチームからの参戦で、第3戦「日本GP」(鈴鹿)では、宇川徹(1973-)、中野真矢(1977-)との「日本人三つ巴戦」を制して見事「優勝」。第15戦「パシフィックGP」(もてぎ)でも、「ハイレベル」なレースを制し、優勝しました。この年のランキングでは、「3位」となっています。

 

「2年目」となる2001年は、まさに、「大治郎の年」でした。

ランキング上位の選手数名が、最高峰の「500ccクラス」にステップアップしたこともありましたが、この年の加藤大治郎選手は本当に強く、「年間最多勝タイ記録」となる「11勝」をマークし、自身初の「世界チャンピオン」に輝いたのです(この功績を称え、翌年、文部科学省から、「スポーツ功労者顕彰」が贈られました)。

 

2002年、大治郎は、ついに、「世界最高峰クラス」に挑むことになります。

 

この年から、「MotoGPクラス」と名称が変わったこのクラスには、バレンティーノ・ロッシ(1979-, 「史上最強」とも呼ばれるライダーで、現在もなお「現役」です)や、マックス・ビアッジ(1971-)、アレックス・バロス(1970-)といった、名立たる「世界の強豪」がひしめいていて、まさに、「2輪におけるF1」です。

 

マシンも「重量級」で、最高速度も、「F1並み」の、「320km/hオーバー」という世界です。

250ccクラスでは「無敵」だった大治郎も、さすがに、「世界の壁」にぶち当たることになりました。

シーズン前半は、性能上「不利」なマシンで戦わざるを得なかった上、身体的に「小柄」であった大治郎には、「GPクラス」のマシンは、扱いきれる代物ではなかったようです。そこで、オフシーズンには、「肉体改造」に取り組んだということでしたが...。

 

2003年4月6日、シーズン開幕戦となる、「日本GP」(鈴鹿)...。

 

予選11番手からスタートした大治郎は、「4番手争い」という、まずまずの位置につけていましたが、3周目の「130R」(1周の後半部分で、スピードがよく乗るところです)からの立ち上がりで、挙動を乱したマシンが、その先のスポンジバリアに「激突」してしまったのです。その間わずか「数秒」という出来事でした。

 

すぐさま、「ヘリコプター」にて、病院に「緊急搬送」されましたが、「意識不明」の状態が長く続きました。そして、「懸命の治療」、「人々の祈り」も空しく、ちょうど「2週間後」の4月20日未明、「脳幹梗塞」のため亡くなったのです。「26歳」でした...。

 

当時、直後の第2戦「南アフリカGP」で、「追悼式典」が行なわれたことも憶えています。

加藤大治郎選手は、もはや、「日本の加藤」ではなく、「世界の加藤」でした。その「衝撃」は、「世界的」にも、非常に「大きなもの」だったと言えるのです...。

 

以下に、「拙文」で恐縮ですが、当時の地元紙の投稿欄に掲載された「追悼文」を、原文のまま、こちらに掲載いたします。

 

「天才加藤選手 早死に悲しい」

 

20日未明、世界二輪選手権(モトGP)の天才ライダー加藤大治郎選手が亡くなった。26歳という若さだった。

近年、モータースポーツの安全性は格段に向上はしているものの、それでも、マシンと人との間には、いまだに追い出すことのできない魔物が潜んでいることも確かだ。

加藤という選手は、どことなくふんわりとした口調で、その風ぼうからも、一見しただけでは強さが計り知れないものがあった。しかし、一度ヘルメットをかぶり、マシンを走らせると、無類の強さを感じさせた。一昨年の250ccクラス総合優勝(11勝)はその表れだ。昨季も、長らく戦闘力の劣るマシンに乗りながらも、常にチャンピオンを見据えた果敢な走りを見せてくれた。

今年こそは、ロッシやビアッジ、またはバロスら世界の強豪とともに、表彰台をかけた素晴らしいバトルをしてくれるものと期待していた矢先の事故であった。

「天才の早死に」とはよく言われることだが、何より、この世からいなくなってしまったことが非常に悲しい。二輪に限らず事故は恐ろしい。日常生活でも気を付けろ、と大治郎があらためて教えてくれたような気がする。合掌。

 

(2003年4月30日付け福井新聞「こだま」)

 

この4年後、「盟友」であった阿部典史選手(1975-2007, 愛称「ノリック」)も、「交通事故」により、後を追うように「早逝」してしまいました。

彼の死からも、もう「10年」が過ぎています...。

 

本日は、誰からも愛された「天才レーサー」、加藤大治郎選手の「没後15周年」の「命日」です。

彼をご存知ない方も、このようなレーサーが日本にいたということに、少しでも想いをはせていただくことが出来れば幸いだと思います。

 

というわけで、今回は、「加藤大治郎選手」について書いてみました。

 

それではまた...。

 

 

 

 

(daniel-b=フランス専門)