今回は、「ブログ開設1周年記念」の「スペシャル・ブログ」となります。

昨年の1月14日。今回採り上げました、ダニエル・バラボワーヌ(1952-86)の、「没後30周年」の、その「命日」に、彼の名前を借りて、このブログはスタートいたしました。

当初は、慣れないばかりの、「不器用」な記事ばかりで、ほんの、「ごく一部の方」に見ていただいていただけに過ぎませんでした。そのため、「没後30周年」を機に、日本ではあまり知られていなかった彼のことを、「広く知ってもらいたい」と試みたものの、「空回り」の連続で、「虚しさ」ばかりが募る日々でもありました。

今回、「初心」に立ち返り、満を持して、この偉大な歌手の、早過ぎる「最後の叫び」を、みなさまに、あらためてご紹介したいと思います。

ダニエル・バラボワーヌは、1952年、ノルマンディー地方の、「レース編み」で有名な街、アランソンに生まれました。彼の家は、「大家族」であり、ダニエルには、2人の「姉」と、その下に、3人の「兄」がいました。さらに、もう1人、2歳年上の兄もいましたが、彼は、「髄膜炎」のため、生後14ヶ月で亡くなったということです。いずれにせよ、ダニエルは、この中では「末っ子」ということになります。

リセ(高校)までは南仏で過ごし(彼の墓は、幼少時に暮らした街の1つ、「ビアリッツ」の、空港近くの墓地にあります)、その後、音楽の道に進むことを決めた彼は、1971年に、1度パリへと上りますが、この時は、ほどなく、地元に戻ったようです。ロックバンド、「Presence(プレザンス)」に参加し、曲作りにも加わりましたが、成功を収めるには至りませんでした(これらの作品は、「最初の7つの作品」としてまとめられ、「没後30周年記念アルバム」にも収録されています)。

1974年、「運命の出会い」が訪れました。当時、歌手パトリック・ジュヴェ(1950-)のもとで「コーラス」として参加していたダニエルの「声」が、バークレー社の「副社長」、レオ・ミスィール(1925-2009)の耳に留まったのです。これがきっかけとなって、ダニエルは、彼のもとでアルバムを作ることになったのですが、なかなか芽が出なくても、レオは、ダニエルの才能を信じ、「擁護」し続けました。それが、1978年の「le chanteur "歌手"」の「ミリオン・ヒット」で、ようやく「結実」することになるのですが、ダニエルは、その「恩」を、一生忘れることはなく、2人の協力関係は、あの、「悲劇的」な事故死(1986年1月14日。搭乗した、ヘリコプターの墜落事故でした)まで途絶えることはありませんでした。

「彼のような知性と才能を持つ人は、もう見つけることはできないだろう...」
ダニエルの死を契機に、レオはそう語って、その職を退きました。

今回、「2つのS.O.S.」と題してお送りしていますが、最初に紹介する曲は、当時124万枚を売り上げ、シングルカットされた3曲も、総数で150万枚を超すセールスとなった、彼の最後のアルバム、「sauver l'amour "愛を救う"」(1985年10月14日発売)からの作品、「tous les cris les S.O.S. "すべての叫びはS.O.S."」です。

この曲は、最初期の、昨年、1月31日付けの記事で紹介しましたが、今回は、これを「グレードアップ」いたしまして、歌詞対訳を、以下に載せることにいたします。

ダニエルは、「予言」めいた曲をいくつも書いています。それも、「不吉」な予言です。その「最たるもの」として挙げられるのが、この曲であり、「partir avant les miens "家族よりも先に"」(1983)であったりもするわけですが、初期の最大のヒット曲、「le chanteur "歌手"」(1978)でも、「俺は、不幸に死にたい。何も後悔しないために。俺は、不幸に死にたい...」と結んでいました。

ダニエルは、1983年、「パリ・ダカール・ラリー」に、「ドライバー」として参加するも、結果は「途中リタイア」に終わりました。しかし、それと引き換えに目にしたものは、アフリカの「貧困」「飢餓」「干ばつ」といった、決して「無視できない」現状でした。「これではいけない」と、意を決したダニエルは、ミシェル・ベルジェ(1947-92)やジャン=ジャック・ゴールドマン(1951-)らに呼びかけ、その救済に乗り出したのです。当時の英米主導の「Band-Aid」では参加がかなわず、これには、ベルジェの妻フランス・ギャル(1947-)も憤っていましたが、その代わりに開催したのが、このアルバム発売直前の、「les chanteurs sans frontieres(国境なき歌手団)」だったのです。

1986年1月14日。今回は、「主催者側の一員」として、「パリ・ダカール・ラリー」に参加していたダニエル。「視察」のために飛んだそのヘリは、夜の砂漠の、「突然の砂嵐」に巻き込まれて、地面に叩きつけられました。誰一人、助かった人はいませんでした...。

ダニエルは、2月5日に、「34歳」になるはずでした...(今年は、「生誕65周年」に当たります)。

本当に、「死の予感」があったのではないかと思ってしまうこの内容...。
この曲「tous les cris les S.O.S. "すべての叫びはS.O.S."」は、文字通りの「S.O.S.」なのです...。

(最初の映像は、アルバム発売直後、1985年10月19日にテレビ放送されたものです)


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tous les cris les S.O.S. (すべての叫びはS.O.S.)

comme un fou va jeter a la mer
des bouteilles vides et puis espere
qu'on pourra lire a travers
S.O.S. ecrit avec de l'air
pour te dire que je me sens seul
je dessine a l'encre vide un desert

まるで、気が狂ったかのように、海に投げ込もうとしている...
空きびんの数々
それから、それを通して読んでもらえるであろう「希望」
「空気」で書いたS.O.S.
「孤独を感じている」と、君に言うために
僕は描こう 「虚しさのインク」で、「砂漠」を...

et je cours
je me raccroche a la vie
je me saoule avec le bruit
des corps qui m'entourent
comme des lianes nouees de tresses
sans comprendre la detresse
des mots que j'envoie

そして、僕は走る
とにかく「生きていたい」
周りの人たちのざわめきに
酔いしれていたい
三つに編まれたつる草のように
苦悩(遭難)を理解することなく
発せられる(送られる)、僕の言葉...

difficile d'appeler au secours
quand tant de drames nous oppressent
et les larmes nouees de stress
etouffent un peu plus les cris d'amour
de ceux qui sont dans la faiblesse
et dans un dernier espoir
disparaissent

助けを呼ぶことは難しい
あまりに多くの「惨事」で胸が締めつけられるとき
ストレスで束ねられた涙
押し殺されそうな「愛の叫び」
それらは、「弱さ」の中に
そして、消え去っていく、「最後の希望」の中に...

et je cours
je me raccroche a la vie
je me saoule avec le bruit
des corps qui m'entourent
comme des lianes nouees de tresses
sans comprendre la detresse
des mots que j'envoie

そして、僕は走る
とにかく「生きていたい」
周りの人たちのざわめきに
酔いしれていたい
三つに編まれたつる草のように
苦悩(遭難)を理解することなく
発せられる(送られる)、僕の言葉...

tous les cris les S.O.S.
partent dans les airs
dans l'eau laissent une trace
dont les ecumes font la beaute
pris dans leur vaisseau de verre
les messages luttent
mais les vagues les ramenent
en pierres d'etoile sur les rochers

すべての叫びはS.O.S.
大気の中に(空に向かって)解き放たれていく
水中に跡を残し、
泡が「美」を生み出す
ガラスの船に乗って
メッセージは闘う
けれど、波が、それらを引き戻す
岩の上の、「星の石」のもとへ...

et j'ai ramasse les bouts de verre
j'ai recolle tous les morceaux
tout etait clair comme de l'eau
contre le passe y a rien a faire
il faudrait changer les heros
dans un monde ou le plus beau reste a faire

そして僕は、ガラスの破片(かけら)を拾った
すべてを集めてみると
水のように「透明」だった...
どうしようもない「過去」に対するには
英雄たちを「変える」しかない
世界にはまだ、やるべきことが残されている...

et je cours...

そして、僕は走る...

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来たる「CD(デジタル)時代」に備えて、最新の電子機器「Fairlight CMI」をいち早く導入していたダニエルでしたが、この「3ヶ月後」、先述のように、「悲劇的な事故」のため、突然この世を去ってしまいました。彼の死は、本当に多くの人々に「衝撃」を与えることにもなりましたが、その、「早過ぎる」死を惜しむ声は、「没後30周年」を越えた今でも、絶えることはありません。

2番目の動画は、ご存知の方も多いかと思いますが、ZAZ(1980-)という歌手によるカバーとなります。昨年、ダニエルの「没後30周年」を記念して作られたトリビュート・アルバム、「BALAVOINE(S)」に収録されたものです。

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続いてご紹介する曲は、1978年に、「コンサート・スタイル」のスタジオ盤として発表され、翌年、パリの「パレ・デ・コングレ」にて初演された、ロックオペラ「starmania」からの1曲、「S.O.S. d'un terrien en detresse "苦悩する(悲嘆に暮れる)地球人のS.O.S."」です。

昨年2月22日付けで初めて採り上げましたが、それがきっかけで、その後、「starmania」の「特集」を組むことにもなりました。

作詞はカナダのリュック・プラモンドン(1942-)、作曲はミシェル・ベルジェ(1947-92)の手による作品で、基本的には、すべてのセリフが「歌」となっています。「群像劇」であり、「悲劇的」な色合いも濃い作品なのですが、この「初演版」では、まだ、そこまで「決定的」なものではありませんでした。

テレビ番組に出演していたダニエル(当時はまだ「無名」でした)の歌を聴いたミシェルが、すぐさま、「主役(ジョニー・ロクフォール)」でオファーを出したエピソードは有名です。この出会いもまた、「運命の出会い」でした。現在では、ミュージカルの「金字塔」的作品とも呼ばれるこの「starmania」ですが、その「大成功」を機に、ともに「黄金の80年代」を迎えることにもなったのです。2人は、(ミシェルの妻、フランス・ギャルも含めて)すでに、「兄弟同然」とも言える仲になっていました。

この曲は、1988年の「リメイク」以降は、文字通り、劇の「愁嘆場」で歌われますが、ダニエルが参加した「初演版」では、「ヒロインの覚悟」に、心が揺れ動く様子を歌ったものでした。ここに載せた音源は、その、「初演版」のライヴ録音(1979年)からのものです。

あわせて載せた動画は、こちらも、この春(4月30日)に、「没後10周年」となる、「夭折の天才」グレゴリー・ルマルシャル(1983-2007)の、大変「貴重」な歌唱映像です。

2004年に、「スター・アカデミー」という番組で優勝し、翌年、歌手デビューを果たしたのですが、先天性の難病、「ミュコヴィシドーズ」(欧米人に多い病気です)により、2007年に、「23歳(11ヶ月)」という若さで「早逝」しました。彼も、ダニエルと同じように、5月13日の「誕生日」を目前にして、この世を去ったのです。

彼についても、先輩ブロガー「ユトリロ」さんの方が詳しいので、ぜひ、そちらの記事(1月7日付けなど)も見ていただきたいと思います。

最後に、いま一度、ダニエル本人の歌で、早過ぎる「最晩年」の名作をどうぞ。

これも、「遺作」となったアルバム「sauver l'amour」からの1曲、それも、アルバムの「ラストナンバー」です。

「干上がった大地」で雨を待つ子ども...その「痛々しい」姿を私たちに訴えかける曲です。

「un enfant assis attend la pluie "座って雨を待つ子ども"」

(daniel-b=フランス専門)