本日は、予定を変更して、このニュースをお届けしたいと思います。

つい先ほどの事ですが、(またしても、)先輩ブロガー「ユトリロ」さんの最新ブログを見て、このニュースを知りました(こちらでは、このようなニュースはほとんど入ってきません)。

去る5月13日午前6時ごろ、シャンソンの訳詞も手掛けた、音楽評論家の永田文夫先生が「他界」されたとのことです。1927年3月28日のお生まれですから、89歳でした。7日付けで書いたジュリエット・グレコや、指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさん(ともに「存命中」です)とは、「同じ年」の生まれとなります。

本来、私のような年齢(45歳)では、永田先生は、「名前すら知らない」のが普通だと思います。「シャンソン歌手」の方や、それを目指している方々は別だろうと思いますが...。

私が、ジャック・ブレル(1929-78)を知ったのが、1982年9月(小6。12歳の誕生日は、「翌月」)のことです。NHKテレビ「フランス語講座」の、「今月のシャンソン」(当時は、毎回曲を流していました)で、「ne me quitte pas "行かないで"」(1959年の「オリジナル」録音です)を聴いたのが、「今日」に至る「シャンソン熱」の、そもそもの始まりですが、この年は、開講の4月から、「テキスト」を購入して持っていました(この年、および、翌年のものは、今でも手元にあります)。

その「訳詞・解説」で、最初に知った評論家の方が「永瀧達治」先生(フランソワーズ・モレシャンさんの夫)です。発売されて間もないレコード(アナログ)、「ザ・ベスト・オブ・ジャック・ブレル」(L25B-1025)を、私は翌年手に入れましたが、そこでも、「訳詞」を担当されていましたから、「最初のイメージ」のまま、ブレルの曲を聴き進めることができました。
そして、そこで「次」に名前を知ることになったのが、この「永田文夫」先生だったのです。

そのレコード、「ザ・ベスト・オブ・ジャック・ブレル」のライナーは、永瀧先生、永田先生の2人が書いています。永瀧先生のライナーは、後年、その著書「さよならゲンスブール パリ発ポップス社会学」(1992年、共同通信社)に、そのまま掲載されましたが、このレコードの「各曲解説」を担当された永田先生のライナーも、直後の著書「世界の名曲とレコード シャンソン」(1984年、誠文堂新光社)に、原文のままではないですが、ブレルの紹介のページに反映されています。
(余談ながら、NHKテレビ「フランス語講座」では、1983年8月に、2回にわたって「シャンソン特集」を行ない、永瀧先生がゲストで出演しました。その第2回目、新世代アーティストの紹介で知ったのが、ダニエル・バラボワーヌだったのです)

その後、私は、数々の「シャンソン」のレコードを手にしますが、1970年代から、80年代初期にかけて出されたものに、永田先生のライナーが多かったと思います。もっと古くのものだと、「蘆原英了(あしはら・えいりょう)」先生(1907-81)が多く書いていますが、ブレルの最後のアルバム「les Marquises」(1977, 日本でのタイトルは「偉大なる魂の復活」)が、日本で「初発売」された時には、この蘆原先生がライナーを書いています。

舞台演出家の蜷川幸雄先生も、12日に亡くなっていますので、そのニュースに「すっぽり」と隠れてしまった感もありますが、こちらの「地元紙」では、永田先生の「訃報」までは、把握することができませんでした。ですが、この永田先生の「死」は、単なる「評論家」の死ではありません。

本日、ここで採り上げたアーティストは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
6月9日の誕生日ももう少し。来年には、「没後20周年」を迎える、シャンソン界の「大御所」、バルバラ(1930-97, 本名モニック・セール、または、セルフ)です(これまでも、「さりげなく」出したりしてますよね...)。

日本でもすっかりおなじみのアーティスト、バルバラ。
「先生」や「先輩」から、「教えてもらった」という、フランス語学習者も多いのではないでしょうか。
実は、バルバラの人気は、まず「日本」から始まった、と言っても過言ではないのです。
アルバム、「愛の華/バルバラ」の日本盤(1972年発売、録音は1971年)は、初発売当時のライナーを蘆原先生が書いていますが(これも、後に、先生自身の著書に収載されました)、それを簡単にまとめますと、

「このような最新の録音が、日本ですぐ発売されるというのは、つまりは、彼女が日本で人気があるということだ。
それにしても、私たちが得意になるのは、少なくとも、レコードに関しては、フランス本国よりも、私たち日本が先に認めたようなものだ。彼女のレコードは、まず日本で売れ始めたのである。
本国でもそうは売れないのに、どうして日本でこんなに売れるのかと、フィリップスの本社も驚いていたほどだ...」

1964年に発売された、フィリップス社からの最初のアルバム(日本では、「私自身のためのシャンソン」というタイトルで、1965年10月に初発売されました)は、翌年には「ACC(アカデミー・シャルル・クロ)ディスク大賞」を受賞した名盤でもありますが、バルバラの、正式な「スタート地点」とも言えるこのアルバムを、日本に「初めて」紹介するのに尽力された方が、この「永田文夫」先生その人なのです。

先述の永田先生の著書、「世界の名曲とレコード シャンソン」(1984年)の、バルバラのページを見ますと、

「このディスク大賞盤は、1965年10月に日本でも発売され、バルバラの歌が初めて我が国に紹介された。実は、私がレコード会社を口説いて、やっと出してもらったのだが、イニシャル・オーダーは、100枚にも満たなかったそうである。しかし、ファンは、着実に増えていった。フランスでも次第に評価が高まり...」

つまり、このレコードは、私たち日本人にとっても大変大きな意味を持つもので、それが彼女の度々の来日にもつながったのです。

ここでは、このアルバムからの曲で、彼女の代表作でもある2曲(「死にあこがれて」「サンタマンの森で」)を、「シャトレ1987」のライヴ映像から、次いで、1964年のそのオリジナル・アルバム全曲を聴いて、「永田文夫」先生を偲びたいと思います。
合掌。

アルバムの全曲名は以下の通りです。

1.a mourir pour mourir 死にあこがれて(死ぬために死ぬのなら)
2.Pierre ピエール
3.le bel age ル・ベル・アージュ(彼はほとんど20歳のようだった...)
4.au bois de Saint-Amand サンタマンの森で
5.je ne sais pas dire... 私は言葉を知らない
6.gare de Lyon リヨン駅
7.Nantes ナントに雨が降る
8.chapeau bas 脱帽
9.Paris, 15 aout パリ、8月15日
10.Bref 要するに
11.sans bagages あなたが帰る日(荷物もなしに)
12.ni belle ni bonne 私は美しくもなく、優しくもないけれど

(daniel-b=フランス専門)