「ダンスといふものは行儀の正しいものよ、だから安心してできるのよ、ダンスをするのを堕落してゐるようにいふ人なんか、何も知らない人なのよ。」
室生犀星『青い猿』(春陽堂版より)
『舞踏会』の時に、芥川龍之介はダンスを踊ったか?という話題を出したが、その答えになりそうな小説がある。
それは、室生犀星が芥川龍之介をモデルにして書いた、『青い猿』という小説だ。
芥川龍之介は昭和2年に亡くなっているが、その4年後の昭和6年から新聞に連載された小説らしい。
この小説では、芥川龍之介をモデルとした秋川という人物が出てきていて、秋川はダンスが好きではなかった、とされている。
帝国ホテルのレストランにディナーに行った時、偶然、ダンスタイムに出くわし、そこで日本の若い女性が、外人と踊っているのを、けしからんと思ったという。
いやいや、あんたは『舞踏会』で日本人女性とフランス人のダンスを書いてるじゃん!と突っ込みたくなった。
ここから察すると、芥川龍之介はダンスをしなかったのかもしれない。
小説の中で秋川は、詩人の萩原朔太郎をモデルとした織本という人物が主催する、文化人たちのダンスパーティを訪れる。
ダンスパーティと言っても、畳ばりの部屋に蓄音機を置いただけものものだ。
近藤富枝著『馬込文学地図』によると、このダンスパーティは大正時代の作家・萩原朔太郎の家で、実際に行われていたものをモデルとしているようだ。
1928(昭和3)年11月26日の室生犀星の日記に、萩原朔太郎宅へ行き、初めてダンスをしたことが書かれているという。
ただし、芥川龍之介は昭和2年に亡くなっているので、小説とは辻褄があわないのだが。
『馬込文学地図』によると、萩原朔太郎とその妻・稲子は、池内徳子の池内ダンス教習所に通い、ダンスを習ったらしい。
大正10年ごろにアメリカでダンスを学んで帰国した池内徳子は、京橋に舞踏教習所を作り、関東大震災後は西巣鴨新田に「ダンシング・パピリアン」を構えたという。
帝国ホテルのダンスパーティや、池内徳子のダンス教習所によって、大正・昭和初期の文化人たちに、ダンスが広まっていた。
この時代、積極的に西洋文化を取り入れようとする若者たちを、「モダンボーイ」「モダンガール」、略して「モボ」「モガ」と呼んでいた時代だ。
物語は、現実と同じように、ダンスを通じて開放された織本(萩原朔太郎がモデル)の妻・劉子(萩原の妻・稲子がモデル)が、他の男と浮気するようになり、夫婦仲が壊れていく様が描かれている。
現実も同様で、萩原朔太郎と稲子は1929年(昭和4)7月に離婚した。
当然のように、萩原朔太郎の子供たちは、浮気の原因となったダンスを憎むようになるのだが。
やがて時代は流れ、萩原朔太郎の娘、萩原葉子は40代でフラメンコなどのダンスを初め、60代で自宅にスタジオを作ったのだった。
自宅をダンス・パーティの場とした作家と、自宅をダンス・スタジオにしたその娘。
ダンスと言う絆で、二つの世代、二つの時代が繋がっているのは、面白いと思った。
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