津山城の石垣にお腹いっぱいになる。
津山城から退城するも昼飯食ってないのでホルモンうどんを食す。
帰り道小腹が空いたので山城を攻める
兵庫県佐用町横坂
播磨・長谷高山城(ながたにこうやまじょう)
別名:高山城、鴻の山城、尼ヶ城
高山城は播磨守護・赤松氏発祥の地といわれています。もとは山田則景の隠居城として築いた城でした。則景の末子、家範はこの城で生まれ、のちに赤松に移り住み、則村(円心)のときに赤松姓を名乗りました。また天正5年(1577)には尼子勝久が上月城に入る前にこの城を居城としたことから「尼ヶ城」とも呼ばれています(諸説あり)。現在城址は「高山城ふれあいの里」として整備されており、登山道沿いに進むと中腹に鐘搗堂と呼ばれる見張り台があります。
高速道路(中国道)のガード下を向こうからこっちへ潜って来ました。ゲートがあるので手動で開閉します。通過する最中に扉が自然に閉まってマイ鉄馬車にぶち当たらないかとヒヤヒヤした だいじょうぶであった
鉄馬車を駐車し本陣にするスペースは十分にあります。トイレがあるが、戸板が打ち付けてあり使用できない。草むらに案内板らしきものが横たわっていた
駐車場にした本陣の左から登山道があり、そこからGO!
適度に整備され適度に歩きやすい。
だいぶ歩きやすい。
津山城でだいぶ歩いてちょっと疲れたが、間もなく尾根筋に到達すると堀切が現れて疲れを忘れる
堀切から右(北)を向けば主郭方面。
左を向けばもう1本の土橋が架かる堀切。今いる堀切との二重堀切となる。その先が鐘搗堂跡。
堀切から落ちる竪堀。
二重堀切を見る。主郭部から伸びる尾根筋の南端に鐘搗堂跡があり、二重堀切で分断してます。
二重目の堀切と土橋。
堀切から落っこちる竪堀。
南尾根の南端に位置する鐘搗堂跡。城の出郭、物見郭的な存在かと。
鐘搗堂の説明板。戦前までは子供らの雨乞いの場とな。地方である風土記的なもんなんでしょうか? 今でもやればいいのにと思うが、異常気象的なゲリラ豪雨あるからいらんか。
鐘搗堂からの眺望。眼下に見えるは中国縦貫自動車道(略して中国道。別名チャイナロード)。向こうが岡山方面です。
堀切から北の主郭部方面へ進撃します。たちまち休憩できますが、ベンチが湿気ってお尻が濡れるので休憩なし。
尾根を北(正確には北東)へ向かってズンズン進む。勾配はまあまあですが、日当たりも良くて程よきぐるじざであるぐるじぐねぇ~
石っ! 虎口跡でもなさそうなので、自然石かと。
比高140mなので、ちょっとの辛抱じゃ
10分も登らん間に主郭から南尾根に連なる最初の段郭の切岸が見えてきました。
南尾根には7段構成で段郭を配しておりまして、その1つ目の段郭。カウントダウンで7段目。
7段目から上を見る。段々になってるのが郭で、通路はその郭横に上まで通ってます。
6段目。
5段目。
5段目から上を見る。立木は多くないので見晴らし快適。
4段目。やや草多し。
3段目。手持ち縄張図では画像左の方の2段目の切岸に石積みが見られるとあるが、草で見えんかった。
2段目。めっちゃ草多し。
2段目からの1段目。からの~ いちばん上が主郭。
1段目。
1段目は主郭西側を帯郭状に西郭群へ続いていまして、少し回り込んでみます。
主郭の切岸に石積み跡が。
ビミョーな感じでチラホラと。
いちおう屈折してるようですが、虎口っぽくない虎口から主郭へ。
主郭
主郭の標柱と説明板。説明板はぶっ倒れてたが、わしが立てかけかけた。固定はしてないのでまた倒れると思う。そして左奥のハゲ山に注目
赤松氏は村上源氏の一流という説があり、南北朝時代 赤松則村のときに足利尊氏に属して、播磨守護。その子範資は摂津守護,則祐は播磨,美作,備前の守護となり,四職家 の一つとして幕閣に重きをなした。記憶にまだ新しい地獄の登山道の城山城(きのやまじょう)を本拠にして、嘉吉の乱で衰退した豪族である。
そして!主郭から超絶感激感動石垣の 利神城(りかんじょう)が一望できます。
こちらの山城も南北朝期に赤松一族の別所敦範が築いた。そして関ケ原後に池田輝政の甥っ子・池田由之が三重の天守を構え総石垣の城として大改修する。それを見た輝政おじさんは幕府の警戒を恐れて天守の破却を命じたのは有名な話。自分の姫路城はどないやねん!ちゅう話ですが。
現在利神城は一般足軽の入山は禁止されていて、ガイドツアーでないと登城できないようすね。なんや足場のようなもんが見えるが、整備は進んどるんやろか? 残念な整備だけはやめていただきたい。入山禁止なる前に攻めて良かったのと、もう1回攻めたい城でもある。
主郭を北から。
登って来た南段郭群。主郭の西側に西郭群があり、北東に山頂がある北側は搦手になると思うんですが、先に北東へ進軍してみます。
主郭北側の虎口を出て見返す。草で訳わからんくなってるが、坂虎口からの堀切に土橋が架かってる感じ。
草の凹み具合で堀切(横堀)から東斜面へ竪堀となり落ちて行ってるかと。
別角度で見る土橋。
主郭東側の切岸。
ちょっと休憩 ← 寝てはいない
主郭より北にある細長い郭は馬場と呼ばれる。左側は段状になってるようですが、ヤブヤブで分からん。
馬場と山頂部を遮断した堀切…? にしては鋭さがない。自然地形の鞍部という感じなんすけど、いちおうここから急坂になる。
イヤな感じの山となる
坂を上がり切れば山頂部。標高261.3m
あいや~ 今までの整備度はなんやったのか 削平されておらず自然地形のままっすね。北側にも登山道があるようですが、これ以上進まず。
山頂からの眺望はサイコー
ひとまず主郭まで後退。
主郭から西郭群を望む。一旦低地になる鞍部があり、その先の壇上が西郭。
鞍部から見た西郭(段差の上)。段差の左側へ廻り込んでみましょう。
側面段差部に 石っ!積み! 略して石積み!
とりあえずこの部分だけですが石積みあります。とりあえずね。
西郭 に突入。御覧の如く 主郭ほど整地はされてなし。
西郭中央部。
北側にこの城で初の土塁。
逆から見る土塁。土塁ここだけなんすけど? 櫓台かも。
西郭からの西尾根に配されるは段郭。
3段くらいの段郭。手前に崩れた五輪塔か?
わしが少し組んだ。うまく組めなかった 南無。
西段郭の最下部。
西郭東側の帯郭。この帯郭を通って鞍部の方へ。
西郭東側面に石積み。赤松つぁんやるではないか。
うわぁお 草が
これからの時期もっと隠れてしまうかも。
鞍部の一段下に来た。最上段が主郭です。ここからもう一段下の腰郭へ。
おおっ!
城内最強規模の石積みです。
嘉吉の乱後に赤松氏はほぼ滅亡したので、その後の別所一族、またその後の天正期に秀吉の援助で入城した尼子氏、それから宇喜多氏が利神城を所有してたことから、宇喜多氏がこの高山城をも所轄してた可能性も否めず、尼子氏の上月城を攻めるのに毛利氏が入った可能性もある。赤松氏の時代でこの規模の石積みはあるのか疑問? その後の誰かの改修物ではないかと。恐るべし宇喜多氏!なので、宇喜多氏でお願いします。
津山城のような立派な石垣くんもおいしいが、山城のがんばってる石積みちゃんも実においしい
草がちょっとザンネン。
城内最狂の石積み。
城内最長不倒最狂の石積み。
いっぱい撮る。
まだ撮る。
石積みの楽園を奥から見返す。
鞍部から南段郭方面への帯郭を通って退城。
整備が行き届いていて(?)立木のない主郭は爽快感ありました。僅かの期間ではあるが利神城の三重天守があった姿を想像してみた。
お口直し、いや、お目々直しはムラサキヤシオツツジ。でええのかな?
わしが置いた。
我本陣に帰還せり。
画像はだいぶズレてます。
終演