JR米原駅の東にそびえる標高254m、比高170mの太尾山

駅から5分、いや10、う~ん12分ほどの駅近山城です。登城口までですが。

 

滋賀県米原市米原

近江・尾山城(ふとおやまじょう)

 

太尾山城が築かれた年代は定かではないが、地元米原の豪族米原氏によって築かれたと云われています。文明3年(1471)、美濃国の武将、斎藤妙椿(さいとうみょうちん・美濃斎藤氏、戦国期に衰退し、後の道三・長井新九郎が斎藤氏を名乗る)との戦いが米原山であった事が妙意物語に記されており、この頃に築城されたのではないか、そして現在米原山と名の残る山はないのでこれが太尾山ではないかと考えられています。

戦国時代には南近江の戦国大名、六角定頼(宇田源氏佐々木氏、近江国守護六角氏14代当主)の居城となっていたようです。

永禄4年(1561)、浅井長政(京極氏の家臣から北近江に勢力を持ち戦国大名になった浅井氏3代目)により攻め落とされ中嶋宗左衛門を城番に配置。長政強し!

元亀2年(1571)、織田信長さまにより浅井氏が攻められ中嶋宗左衛門も太尾山城を撤退。 以後廃城となりました。信長さまもっと強し!

特長としては別城一郭と呼ばれる構造で、北と南に主郭があります。

 

麓の青岸寺から北城への登山道、それと湯谷神社から南城への登山道があるとのことで、まずは青岸寺駐車場に本陣を構え青岸寺から北城を目指すことに。

 

青岸寺の庭園が美しいらしい。らしいということは拝観してないということである。城攻め優先なので、本堂前の庭だけで済ましておく真顔

 

ちなみに、青岸寺の創建は室町時代で、開基は佐々木道誉である。

 

 

青岸寺の境内やら裏の墓地やらをウロウロして登城口を探すが、登城口見つけられませんでしたんよあせる モヤモヤしたままちょっと移動して南城への登城口がある湯谷神社へ。

 

初詣は前の柏原城で済ませたので、戦勝祈願しておきます。一休さん 我に御武運を~

 

挨拶せずにいられられない、阿形の獅子さん。ほっぺがクルクルである。

 

吽形の狛犬さん。ほっぺがモリモリである。

 

後ろ姿はビヨンビヨンである。

 

境内社の獅子さん。胸モリモリ!型は招魂社系狛犬かな?

 

胸モリ狛さん、両方口開けてました。

城攻め優先と言いながらこんなことしてるわし真顔

 

湯谷神社の鳥居前に登城口ありました。北城から攻める予定を南城からに変更!

 

登城口にあった説明板。よくお読みください。

 

縄張図を拡大して加筆。南斗!よう見たら北城へは青岸寺駐車場の奥からやんかあせる

駐車場正面から出て青岸寺入ったらそら登城口ありませんがなオエー どうせこれ見たらつづらオレオレ道みたいでしんどそうなので、現在地の湯谷神社から登ります。

 

山へ突入。登山道は整備されて歩きやすそう音譜

 

ちょっと歩き難くなった驚き

 

だいぶ歩き難くなる煽り

 

めっちゃ歩き難く、めっちゃ急勾配になる。そして、ぐるじい~えーん はぁはぁ

 

下界を見て息を整える。

 

山によくある誰かが積んだ石。ドングリはわしが乗せた真顔

 

最後の直線コース!

 

南城の北端にある堀切に到達

 

現地縄張図、南城を拡大。左(西)から登ってきて上(北)の堀切です。規模はさほど大きくありませぬが、北端と南端(正確には南西)を堀切にて防御しています。

 

堀切。

 

堀切の奥へ行こうとしたが、足を踏み入れると膝くらいまで沈んだ煽り 恐怖の底なし激落葉のようなので行くのをやめた。

 

堀切からの北城への尾根道。

 

堀切から右に折れて南城へ進軍。

 

間もなく主郭部の城塁

 

現地縄張図では南主郭跡となってます。

 

主郭

 

土塁

 

土塁は櫓台であったもよう。

 

土塁から見る郭。

 

ちょっと郭の境目がわからんが真顔

 

読まれよ。

 

南端の郭から先へ。

 

ずいずいっと下りて南端(正確には南西)堀切。分かり難いっすけど土橋です。

 

土橋を渡って振り返って土橋を撮る。葉っぱを蹴散らして分かりやすくしました。

 

土橋から見た堀切は草っぱちであった。

 

逆方向は落葉が積もって落ちて行く。

 

下りて来たとこを撮る。土橋を通過してから二折れ付けてます。

 

 

最初の堀切へ戻り、北城へ向かいます。

 

 

わしが乗せた。

 

 

 

 

(後編)北城 へつづいてしまいます。 

 

 

 

 

 

 

24年1月5日