紀伊国撤退途中に伊勢国で1城抜いて帰りました。
三重県多気郡多気町
伊勢・五箇篠山城(ごかささやまじょう)別名:五ヵ城
築城は鎌倉時代(1185~1333)中期~南北朝時代(1337~1392)とされ、築城者は上野国から伊勢国へ移住した野呂氏代々の居城であったとされる不確実な説。南北朝期には国司北畠氏に属して南朝方の拠点のひとつであったが、伊勢守護の仁木義長に攻められ落城したとされる。
室町期には北畠氏被官の五箇氏が居城してたとされるが、五箇氏は文明年間(1469~87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされ、その後に野呂氏が入部したものと見られる。
永禄12年(1569)、織田信長さまによる伊勢攻略戦により野呂氏は壊滅。信長さまの申し出を受け入れて和睦開城した。無主となった五箇篠山城には北畠家臣の安保大蔵少輔直親が入ったとされるが、城は維持されることもなく荒廃したと云う。
天正4年(1576)年、織田信長さまの策略により北畠具教をはじめ北畠一族衆の多くが誅殺され滅亡したが、僧籍に身を置いていた具教の弟具親が還俗し、川俣森城に拠り北畠再興を図るが果たさず、天正10年(1582)信長さまが本能寺の変で倒れたのを機に軍勢を集め近辺に放火して五箇篠山城に籠城したが、織田信雄軍に2日間で落城し北畠具親は伊賀に落ちたという。
城跡はゆとりの丘という広い公園の一角にあり、城跡も公園として整備されてます(一部ですが)。駐車場横に登城口があり城址碑、説明板があります。
登城口にある説明板。読んでおいてください。
登城口向いにある勢和図書館に郷土資料の展示があるので、お寄りするのもまたよろし。わしは帰りに寄りました。
城の立体模型があるので、お寄りいただいた方がよろしいかと。
攻城開始。
整備されてるので難なく主郭部まで行けます。ただ、この階段はちょっと歩きにくい。
午前中にようさん歩いたので階段が意外とじんどい~
しんどいのを紛らわすため階段から下界を見下ろす。晩秋満開である。
10分もかからず主郭西の腰郭へ。この溝はなんじゃろか
主郭への段差部。主郭を西に置き、東に向かって郭を配する連郭式です。最初に主郭の段差部が現れるので、まず主郭から侵攻して行きます。
段差部を上がると主郭南にある腰郭。主郭へと上がる虎口に階段が付けられちまってます。その階段から続いている溝はなんじゃろか
主郭 階段を上がっての左。西面と北面に土塁があります。
主郭南面の土塁。ベンチの向こうが上がって来た階段の虎口。
主郭の東側を望む。
虎口の土塁。
北面の土塁。
上に同じ。
西面の土塁。
北西の眺望。
主郭から南の腰郭を見る。
五箇篠山城 撮ったど~!!!パンダはいなかった
主郭北側の切岸と腰郭。
腰郭から北斜面に落ちる竪堀(?)
主郭東端の土塁は櫓台跡か? その横からⅡ郭へ向かいます。
主郭とⅡ郭を分断しまくる二重堀切。年末にお見せした堀切と堀切の間のモッコリ土塁が、攻撃的である二重堀切なのに愛嬌あり過ぎる~
逆側から見る。もう二重堀切がメインなのにモッコリが主役を奪っちまってます。それにしても元からこんなに丸かったのか? 時が経つにつれてイカつかった土塁も丸くなったのか
Ⅱ郭。こちらは土塁ありません。公園整備されてるのは主郭までで、これより先はよくある山城の形相が色濃くなります。
Ⅱ郭から見るモッコリ あいや二重堀切。
Ⅱ郭東の堀切。
Ⅱ郭とⅢ郭をぶった切る堀切。
Ⅱ郭北面の切岸。奥が主郭です。
Ⅲ郭の腰郭を通り更に東へ。
Ⅲ郭とⅣ郭を分断する堀切。中央がややモッコリしてるのは二重堀切なんでしょうか? それとも土壇ですか?
手前の窪み。
奥の窪み。う~ん二重堀切なんかな~? 立体模型では土壇状になってますが、どうなんでしょう?
堀切から落ちる竪堀・・・と思って撮ったんですが 主郭の整備度はなんやったのかと思うほどのアレアレ度でやんの
長細いⅣ郭。そういえばⅢ郭へは上がってない
Ⅳ郭の土塁? 主郭の土塁残りからすると土塁ではないかもしれない。
Ⅳ郭先にも堀切。ただ深い、これは深い。
直下できないので、横から回り込みました。ヤバい斜面でキケンが危ない
なんとか堀切へ。
逆から。
オレる竪堀。
城域東端であるⅤ郭?(小郭)から見る堀切。
これにて打ち止め
最後の堀切から脱出するのに苦労した
郭群の南にある帯郭(後付けかも)から退却します。
二重堀切のモッコリ土塁で癒されました
主郭の切岸を見ておさらばじゃ。
晩秋満開であった。
画像はめっちゃズレてます。それに図書館はぶち抜いてません
23年度最後の城攻めでした。