鵜殿城を先にアップしましたが、これが紀州攻め初日の1城目となります。

 

 

三重県南牟婁郡紀宝町

紀伊・京城(みやこのじょう)別名:大里城

 

京城は新宮城主堀内氏善(紀伊国中心にけっこう勢力を持っていた豪族)によって築かれた城です(それ以前に橋本氏が築いていたとの説あり)。氏善は豊臣秀吉の紀州征伐以降、秀吉に臣従しました。(その前に信長に仕えていた)関ケ原の戦い」では西軍に与し、敗戦により居城を捨てて京城に蟄居しています。その後、許された氏善は、熊本城主・加藤清正に仕え、宇土城代をつとめました。

許されたうえに宇土城代を務めラッキー!と思ったのも束の間、慶長20年(1615)に熊本城で病死した。享年67。アンラッキ~

ちなみに、氏善の息子(六男or弟)「大坂の陣」でちょっと活躍した新宮行朝である。

 

後方の山が城跡です。入口に説明板があり、攻城前にはベンチで休憩できます。

 

【説明板】お読みになられてください。

 

入口から上がると東泉寺跡があり本陣にする。

 

石仏、五輪塔群があり説明に書いてあった舟形地蔵は右のやつかな。

 

東泉寺跡横から城跡へ。

 

少し歩き上を見ると、いきなり見えた積み

 

石積みが見えた舗装道をそのまま行くと墓地に出た。あれっ行き過ぎたか?と思い引き返すと入口から最初のカーブに目印があり、ここから登城するようです、上を見過ぎて通り越してた真顔

 

トラロープ付きの急坂を少しだけ登ると城域に突入します。

 

中央曲輪群(曲輪Ⅲ)城内で一番の広さを持つ曲輪であり、居館部であつたと伝わる。

 

【説明板の簡単なイメージ図】 現在の中央曲輪群が曲輪Ⅲ、右の畝掘の土壇が曲輪Ⅳ、頂上(西曲輪群)が主郭である曲輪Ⅰ、その向かいに曲輪Ⅱがあります。まずは中央から東側のウネウネ群を目指して侵攻して行きます。

 

中央曲輪群南の一段低くなった曲輪。井戸跡があります。そして下から見た石積みはこの曲輪の南面に築かれたやつのよう。

 

井戸は石組みされてます。そして枯枝いっぱい。そうなんです、ここは枯枝と伐採した丸太ん棒天国なんです! 

 

曲輪内は御覧の様な感じ。伐採していただいた方々へ感謝の抱きましょう。そして足元を見ながら歩かないとコケてしまいそうな曲輪Ⅲを東へ進む。

 

どの口が言うてるビックリマーク

 

 

曲輪Ⅳの土壇部。

 

曲輪Ⅳ

 

曲輪東端下に腰曲輪があり、看板が見えるので下ります。

 

お読みください。そして見てください。

 

それでは畝状竪堀群の雄姿をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

さらに南の斜面は御覧の如し真顔山城あるある

 

腰曲輪の南端に堀切

 

堀切を引いて見る。コブ2つはなにか?

 

堀切からの南は激斜面。

 

 

曲輪Ⅲへ戻り、主郭部へ登る手前に枡形虎口があります。

 

枡形へ入る手前の居館部からごっつ高低差がある主郭部を望む。

 

そのごっつ斜面下に石組みされた何か。雨水を溜めるタイプの井戸跡のよう。

 

その井戸跡の石っ

 

 

枡形虎口 分かり難いね。

 

分かりやすいね。

 

引いての桝形全体。向こうが入口、こっちが出口。

 

枡形を出ると道が付けられ上へ行けそうですが・・・

 

案内板がある主郭への直登コースで。

 

正確には直登ではなくて、つづら折れ必殺トラロープ道

 

足場が悪く激坂でちょっとぐるじいが・・・おおおっこれはっ!?

 

 

 

後編へ続いてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

23年11月の最後の日