『らんまん』ロスである。
浜辺美波てなんとも思わなかったが、このドラマを観てなんとも思うようになった。
新羅神社での戦勝祈願を終え、燧ヶ城へ攻め込みます。
新羅神社の境内横から攻城開始。植物採集はしません
目的は城跡だけなので、その1で言うた通り燧ヶ城(愛宕山)までの往復だけです。
0.4km 14分だけしんぼうして登ります
登山道は整備され適度に歩きやすい。ただあづい~
石段が現れこの先右にカーブしてます。
カーブに差し掛かる。0.2km 3分は主郭までの距離のようで、ここが城の入口のようです。手持ちの腹時計でちょうど15分くらい。
カーブを抜けると虎口、そして目に飛び込んでくる石っ!段と石っ!積み。
大手馬出し。この石垣を見て一気にテンションアゲアゲ 2mくらいですが、しっかり積まれてます。
ただちょっと谷積みという感じがするんですう~ん近世型か
馬出しを上から。敵が登城道から進撃してくると、土塁から横矢を浴びせ、怯んだところを馬出しから出撃し敵を殲滅す。
馬出しと石段を挟んでの反対側は横堀が落ちてます。落ちてるので竪堀かな。
横堀に落ちた、いや下りてみた。城外側(右)は土塁になり、堀底にはコケ石がゴロゴロと散乱してます。
横堀の上方で右にクイッと直角に折れてます。
堀底から見る石段の横部。
馬出しの石段を登ると、堀切に土橋が架かり、その先に石積みされた枡形が。ここで二度目のテンションアゲアゲ
土橋から見る堀切は直角に左に折れ、さっきの石ゴロゴロ竪堀へ落ちて行ってます。
枡形の石積み。
石積みの上に崩壊した小さい祠が。
枡形を過ぎると長細い郭、東郭とでも呼びましょうか。直進して主郭方向へ。
城の説明に「一向一揆が立て籠もり、織田軍に対し投石に使った大きな石」とあるが、なんぼなんでもこれはムリやろ~ 考えてみたら投げれんかったから城に残ってるわけやし
東郭の土塁。石がようさん見えるが石で補強されてるのか自然石が露出してるのかは分からない。ただ投石するには石は豊富である。
土塁の向こうには竪堀が落ちていた。
主郭への石段。地形的に天然の岩をしのまま使用した感じ。
主郭 おおっ石っ!壇が見える。
これはまさしく雁木付き石組み櫓台ではないか! 駄菓子菓子! 後世の小堂跡であるということらしい。見た感じ正直すぎるとおもうたわ
主郭奥に城跡碑、縄張図板、もう一つ石壇がある。
城址碑
碑の裏側。その1でありましたが、もう一度読みましょう。
少し付け足しますと、戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣・赤座但馬守(関ケ原で東軍に寝返って刑部隊に襲い掛かった内の1将だが戦後に改易された赤座直保の先祖。上弦の猗窩座とは無関係)、魚住景固(朝倉氏家臣)が城主であった。
縄張図。ご覧の様に尾根筋を削平した縄張となっています。
二つ目の石壇。これも小堂跡であるらしい。
壇上に三角点。
壇上から見る主郭。ベンチで一休みできるのは有難し。
ベンチに腰掛け今庄の町を眺めながら休憩ちう。
主郭の先は主郭と西郭を堀切で分断し土橋が架かる。
土橋から見る堀切。
堀底(北)から見る土橋。
主郭城塁には無数の石。崩壊した石積み?
反対側(南)の堀底から土橋を見れば石組みで補強されていた。
堀切から南斜面に落ちる竪堀。
堀切は竪堀方向とは別に横堀となり主郭の南斜面を走ってるんですが、主郭の切岸にはものごっつ石石石!
堀底にも石石コケ石!だらけ。
土橋を渡り見返す。渡り切った所で折れを付けて横矢入れてます。カッケー!
西郭 ちょっとだいぶ斜径してますね。
土塁。
西郭にも石壇があり歌碑が乗っかってる。
あなたのふるさとはどこですか?
たまには故郷へ帰ってますか?
西郭から先は搦手であり藤倉山へのハイキングコースとなってます。ハイキングではなくもう少し進軍します。
城域最西端の土塁に設けられた虎口。
虎口手前で振り返る。
虎口を出て振り返る。一文字土塁に割目を入れた平入虎口である。人1人しか通れんくしてる狭き門である。
虎口の先は低い土塁が残り城域最西端となる。
藤倉山への尾根が続く。これにて終了。
主郭から撮り鉄できた。ちなみにわしは鉄オタではない。
683系 サンダーバードかな?
主郭の石壇は明らかに後世の物で馬出しや枡形の構築は権六の持城時期ではなかろうか。土橋の石積みは一向一揆の得意技であるのでその時代かも知れない。しらんけど
やたらとゴロゴロ石が多いのは元々岩盤気質の山なのかも知れない。しれないけど
遺構はハッキリとしてよく残っていて楽しめた城跡でした。
写真の位置はズレてます。
23/09/01